知られざる南アメリカ解放の歴史 [歴史]

   サブタイトル: 南アメリカ諸国独立の影の立役者

  
南アメリカの地図を見ると、

一見、アフリカ大陸の地図のようにゴチャゴチャと十数ヵ国があるのが分かります。


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ここでちょっと南米を構成する国々とそれぞれの国で使われている公用語を見てみると


                 国名                公用語  
              アルゼンチン (Argentina) スペイン語
              ウルグアイ (Uruguay)    スペイン語
              エクアドル (Ecuador)     スペイン語
              ガイアナ (Guyana)      スペイン語
              コロンビア (Colombia)    スペイン語
              チリ (Chile)             スペイン語
              パラグアイ (Paraguay)    スペイン語
              ペルー (Peru)          スペイン語
              ベネズエラ (Venezuela)   スペイン語
              ボリビア (Bolivia)        スペイン語
              スリナム (Surinam)      オランダ語
              ブラジル (Brasil)        ポルトガル語



上記リストを見て一目瞭然なように、スペイン語を公用語としている国が11ヵ国もあるのに対して、ポルトガル語を公用語としている国はたった一国、ブラジルだけしかありません。

注)オランダ語を公用語とするスリナムやフランス語が公用語のフランス領ギアナ(Guyane française)なども存在しますが、
  それぞれの言語を使用する住民数は南アフリカ全体の住民数から比較して極めて少ないので今回のテーマーからは除きます。

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このように、南アメリカ大陸に圧倒的にスペイン語を公用語とする国が多いのは、その昔、スペインがコンキスタドール(スペイン語で「征服者」の意味)を数多く送り込んだから、スペイン語の国が多いんだな”と思われた方は残念ながら間違っています。
それを説明するためには、なぜ南アメリカ大陸の半分を占めるブラジル一国だけがポルトガル語なのか、という話から始めなければなりません。


ブラジル帝国の誕生

1807年のフランス・ナポレオン軍のポルトガル侵略から逃れて植民地であったブラジルに亡命したポルトガル王家は、リオ・デ・ジャネイロを首都とする”ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国”(ポルトガルとブラジルにまたがって存在した同君連合王国)を建国した。

ナポレオンから逃れてブラジルに逃亡したポルトガル王家

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しかし、ヨーロッパの状況が安定(ナポレオンの敗退)し、1820年にポルトガルに自由主義革命(ポルトガル1820年自由主義革命)が勃発。 ジョアン6世王は革命委員会の要求を認め新憲法を承認し、ペードロ王子を連合王国の摂政としてブラジルに一人残して1820年にポルトガルに帰国した。
ポルトガル王家による徹底的な搾取制度、重税などに不満をつのらせていたブラジル人たちは、ポルトガル王家が引き上げた時期に生じた一時的な政治的空白を利用し、ペードロ王子を初代皇帝としていだいて”ブラジル帝国”として1822年9月7日に独立宣言をした。

ペードロ王子が父王が帰国したあとにすぐ独立宣言をしたということは、一見、ジョアン6世王の第一子であり、当然王位継承者であるペードロ王子が、父親であるジョアン6世王に背いたかのような感じがしますが、ペードロ王子が”ブラジルの独立宣言”という決断をしたのには当然ながらその理由がある。 それは、ポルトガルの議会政府はブラジルを再び植民地とする目的から、ペードロ一世王子をポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の摂制職から解き、たんなるポルトガル代表の役職に下げ即刻帰国を命じたのがその直接原因だった。


ペードロ王子がブラジルの独立を宣言したイピランガの丘

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ブラジルの初代皇帝ドン・ペードロ一世
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しかし、カッコよく独立宣言したのはいいものの、そういうこともあろうかと予測していたポルトガル政府は、ブラジル人たちによる独立運動や反乱が起こった場合、それを鎮圧するに十分な軍隊をブラジル領土内要所に駐屯させていた。
これらの軍隊は当然本国であるポルトガルに忠誠を誓うポルトガル人指揮官とポルトガル人兵士たちで成っていた。

ポルトガル軍とブラジル独立軍との戦いは北部と南部で始められ、南部ではシスプラチナ県の首都モンテビデオに立てこもったポルトガル軍は強固な抵抗を見せた。 北部ではやはりポルトガルとの経済的結びつきの強い商人の多いパラー県とマラニョン県がペードロ王子― 独立宣言後はペードロ1世皇帝と名乗った― を君主と認めず、反抗の旗を上げた。 ピアウイー、アラゴアスの両県も本国派に組し、新興独立国ブラジルの見通しは暗雲がたちこもっているかのようだった。

 

ナポレオンから逃れてブラジルに逃亡したポルトガル王家

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しかし、ヨーロッパの状況が安定(ナポレオンの敗退)し、1820年にポルトガルに自由主義革命(ポルトガル1820年自由主義革命)が勃発。 ジョアン6世王は革命委員会の要求を認め新憲法を承認し、ペードロ王子を連合王国の摂政としてブラジルに一人残して1820年にポルトガルに帰国した。
ポルトガル王家による徹底的な搾取制度、重税などに不満をつのらせていたブラジル人たちは、ポルトガル王家が引き上げた時期に生じた一時的な政治的空白を利用し、ペードロ王子を初代皇帝としていだいて”ブラジル帝国”として1822年9月7日に独立宣言をした。

ペードロ王子が父王が帰国したあとにすぐ独立宣言をしたということは、一見、ジョアン6世王の第一子であり、当然王位継承者であるペードロ王子が、父親であるジョアン6世王に背いたかのような感じがしますが、ペードロ王子が”ブラジルの独立宣言”という決断をしたのには当然ながらその理由がある。 それは、ポルトガルの議会政府はブラジルを再び植民地とする目的から、ペードロ一世王子をポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の摂制職から解き、たんなるポルトガル代表の役職に下げ即刻帰国を命じたのがその直接原因だった。


ペードロ王子がブラジルの独立を宣言したイピランガの丘

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ブラジルの初代皇帝ドン・ペードロ一世
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しかし、カッコよく独立宣言したのはいいものの、そういうこともあろうかと予測していたポルトガル政府は、ブラジル人たちによる独立運動や反乱が起こった場合、それを鎮圧するに十分な軍隊をブラジル領土内要所に駐屯させていた。
これらの軍隊は当然本国であるポルトガルに忠誠を誓うポルトガル人指揮官とポルトガル人兵士たちで成っていた。

ポルトガル軍とブラジル独立軍との戦いは北部と南部で始められ、南部ではシスプラチナ県の首都モンテビデオに立てこもったポルトガル軍は強固な抵抗を見せた。 北部ではやはりポルトガルとの経済的結びつきの強い商人の多いパラー県とマラニョン県がペードロ王子― 独立宣言後はペードロ1世皇帝と名乗った― を君主と認めず、反抗の旗を上げた。 ピアウイー、アラゴアスの両県も本国派に組し、新興独立国ブラジルの見通しは暗雲がたちこもっているかのようだった。


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交戦状態となったポルトガル王国、ブラジル帝国の両国にとって最大の問題は”いかにして敵の軍隊を破るか”ではなく、”いかにして軍資金を調達するか”だった。 つまり、戦を始めるにあたって肝心の金が不足していたのだ。
弾薬や武器を買うにも将兵に給料を払うにもまず先立つモノは金だが、両国とも財政状態は最悪だったのだ。
しかし、ポルトガルとブラジルを比較した場合は、ブラジルの財政状態の方がポルトガルよりも数十倍ひどかった。そのわけは、ポルトガル王家がリオ・デ・ジャネイロを引き払ってリスボンに帰る際に、ブラジル政府が保管していたすべての財宝と貨幣をかっさらえて持って行ったためだった。 

一方、ポルトガルの方は、ナポレオン戦争の煽りや王家の浪費などから財政を立て直すまでにいたっておらず、やはり厳しい状態にあったといえるが、ポルトガルは数百年の歴史をもつ国であり、信用もあることから必要とあればヨーロッパ諸国から借金をしてでも軍資金を調達することが可能だったので、独立をしたばかりでまだどの国からも承認されてない― したがって借金をしようにも信用が全くない― ブラジルとは雲泥の差だった。

ブラジル帝国がポルトガルと独立戦争を始めるにあたって痛感していたのは、8千キロという長大な海岸線をもつ国を敵の侵略から守るのに不可欠なのは強力な海軍ということだった。
話はかわるが、独立に際して海軍のパワーを実際に歴史上で示したのが米国で、米国議会は独立宣言に先立つ1775年の12月に当時世界最強の海軍をもっていた英国との決戦を予想し、英国軍艦にひけをとらない攻撃力をもつ巡洋艦を13隻建造する決定をしている。以来、海軍力は米国を守る主戦力となり、1814年にはフルトンの設計による世界最初のスチーム機関搭載の戦艦「デモロゴス号」が完成、その11年後の1825年には当時で世界最大の軍艦ノースカロライナ号(大砲102門)を建造するにいたっており、以降、現在にいたるまで米国は世界最強の海軍をもっていることは周知の事実である。
 
しかし、独立したばかりのブラジルは米国とは比較もできないほどの貧弱な海軍(と言えるかどうか…)で所有艦船はたったの8隻、合計砲門数も200門しかなかった。 対するポルトガルは艦船14隻を所有し、合計砲門数はブラジル艦船の2倍。 さらにブラジル側にとって不利となったのはバイーア県のサルバドール市にあった造船所はポルトガル軍が押さえてしまったことだった。
ブラジル側にとってわずかの救いとも言えるたのは、リオ・デ・ジャネイロにあった港湾施設とポルトガル艦船をかなりの数没収したものの、それらの艦船のほとんどは即戦力とはならない、装備が錆びついたりロープが腐ったりしている船や老朽船だった。 ブラジル政府は大至急、それらの艦船の内、使えそうな船の修理・改修を行うと同時に、広くブラジル国民に軍備費への協力をうったえた。 その反響は大きく、ブラジル人たちは貧富の差なく、貨幣や貴金属などを供出し、それでもって政府は英国などから中古軍船を至急に数隻購入した。 

しかし、古今の歴史が示すように、士気と勇気だけで戦争には勝てないというのも真実だ。
ポルトガル海軍に勝つためにはブラジルはより多くの軍艦が必要だったが、それ以上に深刻な問題があった。 それは熟練した士官と水夫の不足だった。 船がいくらあってもそれを実際に動かし、いざ敵船と出会ったらせめて互角に戦えるだけの技量をもった乗組員たちがいなければ猫に小判と同じだ。

ペードロ王子が勇ましく独立宣言を叫んだ時、ブラジルには160名の士官がいたが、すべてが1808年にポルトガル王家がブラジルに逃げてきた時にいっしょにブラジルに来た者、つまりポルトガル人たちだった。 したがって、母国を裏切った、元植民地であるブラジル海軍の船に乗ってポルトガルの船を相手に戦いなどするはずがない。 この問題は軍隊(正規軍)においても同様で、指揮官も兵士もすべてポルトガル人たちで構成されていた。
当時のブラジルの軍隊は、上述の正規軍の他に予備軍ともいえる、退役軍人や雇兵からなる軍隊があり、幸いにもこの予備軍の多くはブラジル生まれの兵士や下士官などで構成されていたこともあり、ブラジル政府の呼集に応じてポルトガル軍といつでも一戦を構えれるべく急いで再編(兵士の徴集)されつつあった。

余談になるが、このブラジル軍再編(徴集)というのが、現在では考えられない無茶な方法で行われたようで、いくつかの町では広場でカトリックの宗教儀式があるからと住民を多く集め、そこに集まった男たちをウムを言わせずに片っぱしから捕まえて縛り、リオ・デ・ジャネイロに送り込む、ということをやった。 セアラー県などは合計で3千人もの徴集兵をリオ・デ・ジャネイロに送りましたが、輸送に使われた帆船の狭い船倉に徴集兵をギュウギュウつめ込んだため、暑さと飲料水不足で550人以上が途中で死んだと記録に残っているそうです。 また、徴集兵の中で反抗的な者は手枷足枷をはめられたとか。まるで奴隷と同じあつかいですね。
こうして集められた徴集兵たちにはさらに兵営での過酷な待遇がまっており、命令や規則を守らないものには容赦情け無く体罰が課せられた。体罰は棍棒による打擲、ムチ打ち、サーベルによる刀背打ちなどなど。。。
あまりのひどさに逃亡兵があとを絶たなかったとか。 米国のミニットマンとは大違いだ。

徴集兵への過酷な仕打ちはたちまちの内に全国津々浦々にまで知れ渡ったため、徴集を恐れる男たちは自ら足の指や手の指を切断して徴集から逃れようという。中には片目をつぶすものもいたとか。 
徴集はおもに農民とか下級階層の男たちがターゲットにされ、金持ちや貴族の子弟たちは金を使って徴集から逃れたという。このようなエピソードはなぜか戦時中の日本の召集を思い出す。
何としてでも兵力を増強したいブラジル帝国政府はついに業を煮やし、1824年1月13日の発令により、

今後は手足の指が不足している者、または目が片方無い者も徴集の対象になる

     と布告。 
     いつの世も貧乏くじを引くのは貧乏人のようだ…

しかし、いくらブラジル政府が躍起になっても、金(軍資金)は天から降ってこないし、時間は待ってくれないし、ポルトガルもブラジルが陸海軍を立派に装備・編成するまで待ってくれない。 となると残された方法はただ一つ、外国にその打開策を求めることだった。 運がよかったと言うべきか、その頃、ちょうどヨーロッパではナポレオン戦争も一応終着し、ヨーロッパ各国とも士官、水兵、軍船がありあまっていたのだ。

ちなみにフランスおよびスペインの主力艦隊を破り、世界一の海軍国となっていた英国は、ナポレオン戦争時には700隻以上も軍艦をかかえていたが、戦争の集結と同時に活動艦数は激減しわずか130隻あまりとなり(残りは港で保管)、5千5百人以上いた海軍士官のうち9割が失職、または減給状態にあった。
この余剰艦船ならび乗組員に目をつけたブラジル政府は、早速英国政府と交渉し、破格の値段で乗組員ごと艦船を借りることにした。現在でいうなら、いわゆるチャーター契約だ。それとも傭兵契約か?

そして、この傭兵契約によって6隻のフリゲート艦が雇われた。
海軍力はなんとか少しは補強されたものの、まだまだ不十分だったが、ここでそれこそ”天から降ったような”強力な助っ人が現れたのだ。

当時の軍船 戦列艦と呼ばれていた
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海のディアブロ(悪魔)との契約


その名はトマス・コクラン。
スコットランド生まれで本名はトマス・アレクサンダー・コクラン(Thomas Alexander Cochrane)。 ナポレオン戦争時代、英国海軍でめざましい功績をあげたコクランは、ナポレオン戦争終結後に南米へ向かい南米諸国の独立の影の立役者の一人となったのだ。


トマス・アレクサンダー・コクラン(1775年-1860年)
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コクラン卿と呼称されるトマス・コクランは、長身でハンサムで智謀に長けたスコットランド人だった。
トマス・コクランは1800年に若干25歳で乗員84名、大砲14門搭載のスループ船Speedy号を駆って、はるかに大きいスペイン海軍の戦列艦El Gamo号(大砲32門搭載、乗員300名)を捕獲するという、初陣とは思えないような快挙を成し遂げ、ヨーロッパ中に一躍その名を知らしめた。

英国海軍のスループ船HMS Speedy号
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その功績によってフリゲート艦Pallas号の艦長に昇級されたトマス・コクランは、地中海狭しと大活躍し、フランスならびスペインの海軍を戦慄させた。
当時は敵船を捕獲した場合、全ての貨幣や積荷を没収する権利があったようだ(合法的な海賊?)。
まあ、そういうご褒美があればこそ、命をかけて敵船(軍船、商船を問わずに)を捕獲しようと頑張ったのだろう。
トマス・コクラン指揮下のPallas号の活躍は目覚しく、ちなみに同艦艦長としての初航海で捕獲した敵船からの捕獲品総額は当時の価格で7万5千ポンド、実に英国海軍が支払っていた給金の300倍、現在の価格にして1800万ドル(!)に相当するという膨大なものだったそうだ。 まったく笑いが止まらない(商売)とはこのことであろう。

コクランはナポレオンから『El Diabro』(悪魔)と呼ばれたというから、そのすごさが分かるというものだ。
このトマス・コクランがヨーロッパの戦火がおさまった後に(海軍上層部とのいざこざで海軍を追放された後でもある)、金儲けと冒険のために乗り出したのが、スペインを相手にしての南米のチリやペルーの独立戦争への加担、ポルトガルを相手にしてのブラジル独立戦争への加勢、そしてオスマン・トルコ帝国を相手取ってのギリシア独立への加担などだった。
ギリシアの場合をのぞいて、いずれのケースも、コクランの介入は決定的な結果 ― つまりコクランが加担した国はすべて独立を獲得― をもたらしているから、彼の戦術的才能は天才的であったと言えるであろう。

スペインは、南米大陸のほぼ左半分を植民地化していたが、ナポレオン戦争のためこれらの国々への監視が緩んだのを好機ととらえて、スペイン支配下の南米各地で独立運動が始まっていた。
まず、北部では1814年にシモン・ボリバルがノーバ・グラナダの独立を宣言し(同国は後にコロンビアとベネズエラに分割する)、1816年にはブエノスアイレス議会がリオ・ダ・プラッタ連合県(後のアルゼンチン)の独立を宣言、1817年にはチリが独立、さらに1821年にはペルーが独立した。  参考:時系列的イスパノ・アメリカ諸国の独立


しかし、これらの国々は、独立はしたとはいうものの、いまだにスペイン海軍に沿岸を脅かされ、また船舶を利用しての補給ルートも脅かされ海上貿易も出来ない状態にあった。
圧倒的なスペインの海軍力の前に、これらの南米新興国の運命は風前のともし火となっていたのだ。
そこに駆けつけたのがコクラン提督(英国では提督にまで昇進しなかったが、ブラジル海軍では提督になったので以後は提督と呼びます)で、奇襲奇策でまたたく間に南米のスペイン艦隊を壊滅させてしまったのだ。

スペインの艦隊は自然の要害に守られたチリのバルディビア港を拠点としていたが、闇夜にまぎれて手漕ぎボート数隻で上陸、歩哨をすべて縛り上げ、港に停泊していたすべてのスペイン艦船、弾薬、補給物質を捕獲してしまい、同地域のスペイン艦隊を一戦も交えず無力化してしまった。

バルディビア(チリ)

大きな地図で見る

  華々しい戦果を南米でのデビュー戦で示したコクランだったが、捕獲した財宝の分配で雇い主であるホセ・デ・サンマルティン将軍(アルゼンチン、チリ、ペルーの解放者)と折り合いがつかず、挙句の果てにコクランは独立戦争とは何の関係もないアメリカの鉱山会社の金銀を輸送していたロバ隊を襲撃して積荷を収奪、ついで沿岸の二つの町を略奪、そして締めくくりにサンマルティン将軍がスペイン軍の攻撃から守るために船に移して保管していたペルー国庫のすべての財宝を船ごと奪って逃亡してしまった。 盗みっぷりも逃げっぷりもさすがに大物は違うといえる。
スペイン語圏南アメリカを後にしたコクラン提督が次にターゲットとしたのがブラジルだった。


ナポレオン戦争時代の軍船が装備していた大砲
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     先にも述べたように、想像もつかないようなカオスの中で、ようやく海軍らしいものを築きつつあったブラジル帝国にとって火急の課題はその海軍を指揮できる人間を見つけることだった。

ブラジル海軍の提督たちはすべて実践の経験が乏しい(皆無?)のに加えて、すべてがポルトガル人だった。 ブラジルはそれまでの宗主国ポルトガルに反旗を翻して独立をしているので、ポルトガルを母国とするポルトガル人提督たちにブラジル海軍の指揮を任せたり、数少ないブラジル海軍の艦船の艦長などに任命すれば、いつ反乱を起こすか分からなかった。 ブラジル帝国政府にとっては痛し痒しという頭の痛い問題であったわけだ。

そこに降って湧いたように現れたのがコクランだった。 彼を提督として雇えば?という提案があったのだ。 コクランの名はヨーロッパ中に知れ渡っていたし、彼を味方にするには”金”さえ払えばいいのだ。
おまけに彼を海軍の指揮官として、配下に英国人や米国人の乗組員を使えば、いつ反乱を起こすかわからないポルトガル人乗組員や未経験のブラジル人乗組員も何とか使いものになるだろう、と一石二鳥的なグッドアイデアだったのだ。
まさに”願ったり叶ったり”ということで、至急、コクラン提督を雇い入れることを決定したのが”イピランガの叫び”(独立宣言)が行われた一週間後の1822年9月13日だった。

同年11月には、当時チリにいたコクラン提督のもとへブラジル政府の使者が送り込まれブラジル政府側の条件が示された。
その条件とは… 『戦闘により捕獲された物品は全て捕獲した者の所有物となる』 というものだった。
その後少々紆余曲折があったが、翌年の3月13日にコクラン提督は帝都リオ・デ・ジャネイロに到着。
ただちにブラジル海軍の艦船を視察したコクラン提督は、艦船はまあまあ使用できる状態にあることを確認したが、乗組員の質(訓練度)が最低であるのに驚いた。

しかし、嘆いたり罵ったりしているひまはない。
早速、艦隊を編成にかかり、4月1日にはバイア県のサルバドル市の要塞に立てこもっているポルトガル軍への海上補給を阻止すべくリオ・デ・ジャネイロをあとにした。 コクラン提督率いるブラジル艦隊は「ペードロ1世号」を旗艦とする5隻。 実際は7隻で出発するはずだったがあとの2隻はとても航海できる状態になかったため港に残すことになった。 
ブラジル艦隊の乗組員は英国人および米国人水兵が160名、それにポルトガル人や黒人奴隷上がりからなる水兵130名という混成だった。


大きな地図で見る

サルバドルの湾口にあるサントアントニオ要塞にポルトガル軍は立てこもった
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ところがサルバドルに到着したブラジル艦隊は予期していなかった強力なポルトガル艦隊と遭遇した。
敵艦隊はブラジル艦隊の3倍近い14隻で、砲門数は合計で380門。 対するブラジル側の砲門数は234門のみ。
しかし、コクラン提督は並外れた強運の持ち主だったと」いえよう、一戦をかまえるべく出港してきたポルトガル艦隊の旗艦ドン・ジョアン6世号が座礁してしまったため海戦は一週間引き伸ばされることになった。

しかし、いざ海戦になってみるとブラジル艦隊は射程の半分しか届かない弾丸(質の悪い火薬が原因)、急速な方向転換でたちまち裂けてしまうボロ切れ同然の帆布などの問題に直面した他に、ブラジル艦隊乗組員の中にいたポルトガル人水兵たちによる戦闘ボイコットという事態も発生、ヘタをすればコクラン艦隊はポルトガル艦隊に捕獲されるおそれが出てきたため、ここは”三十六計逃げるに如かず”で、ろくすっぽ戦闘もせずにさっさとリオ・デ・ジャネイロに逃げ帰ってしまった。

苦い初戦の経験はコクラン提督に教訓をあたえた。 リオに帰投したコクランはすべてのポルトガル人乗組員を追放し、代わりにボイコットや反乱を起こす危険のない英国人や米国人の傭水兵を雇い入れるとともに、さらに新しくブラジル人水夫も加えた。 
また、雪辱戦に備えて、ブラジル艦隊はヨーロッパから新しい武器・弾薬、それに機材を購入するとともに艦船の装備を一新した。
万全の体制をとって再出撃をしたブラジル艦隊だったが、智謀に長けたコクラン提督はポルトガル艦隊と一戦をかまえるのを避けて、敵の補給線を断つべく海上封鎖をした。

バイア県のサルバドルに立てこもっていたポルトガル軍は、すでに周囲をブラジル軍に取り囲まれていたため、食料・武器弾薬の補給は本国ポルトガルから船によって補給されるのを待つしかなかったので、コクラン提督による海上封鎖はポルトガル軍にとって生命線を絶たれるのと同然の結果をもたらし、わずか2ヵ月後にはポルトガル軍はサルバドルを後にして17隻の艦隊でポルトガルへ逃避を図ったが、コクラン提督の艦隊に追跡され、16隻が捕獲され、2千人が捕虜となった。まさしくコクラン提督の智謀による大勝利です。

さらにコクラン提督配下のジョン・テイラー艦長は、フリゲート艦ニテロイを駆って大西洋を渡り、ポルトガルの首都リスボンの脇を流れるテージョ川まで達し、ブラジル艦隊はポルトガルからの攻撃に対して見事にブラジルを守るだけでなく、必要とあればいつでもポルトガル本国を攻撃できるという威嚇デモンストレーションを行い、リスボンの市民たちを恐怖におののかせた。


フリゲート艦ニテロイ号
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 ニテロイ号は大西洋を渡りポルトガルの首都リスボンに達した
(ルートは正確ではありません)
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コクラン提督は、バイア県のポルトガル軍を蹴り散らした勢いをもって、いまだ頑強に抵抗を続けているブラジル北部の2県、マラニョンとパラーの攻略に出発した。 
マラニョン県の首都サンルイース市にはポルトガル軍およびポルトガル人を主体とする守備軍がいたが、この時点ではすでにピアウイー県ならびセアラー県を出発したブラジル独立混成軍8千人がサンルイース攻略を目指して進撃中であり、サンルイースの陥落は時間の問題であったが、ここでもコクラン提督は遺憾なく”策略家”ぶりを発揮。

サンルイース市の前に広がるサンマルコス湾に到着したコクラン提督の船はブラジル国旗の代わりに英国国旗をマストに上げていかにもブラジルVSポルトガルの戦争に対して(表向きは)中立の立場をとっていた英国の軍船のように見せかけ、歓迎に来たポルトガル船ドン・ミゲール号を捕獲するとともにサンルイースのポルトガル軍司令官に対して無条件降伏を要求した。
すでにブラジル独立混成軍8千人が迫っているとの情報を得ていたポルトガル軍は翌日(1823年7月28日)に降伏し、たったの1隻でサンルイースを陥落したということでコクランの名声はさらに高まった。 
コクラン提督はただ漁夫の利を得たというだけだが、こういう駆け引きが出来るというのもやはり彼の天才的な戦略才能のゆえであろう。

独立当時のブラジルの国旗
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 現在のサンルイース市
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サンルイースを難なく攻略したコクラン提督は最後のポルトガル軍の拠点、パラー県の首都ベレーン市の攻略へと向かった。
コクラン提督はここでも大胆な策略を計画。 先にサンルイースで捕獲したドン・ミゲール号― マラニョン号と改名した軍艦を部下のグレンフェル艦長に指揮させてただ一隻ベレーン港に向かわせ、ポルトガル軍に対してすぐさま無条件降伏しなければ、水平線の向こうに待機しているコクラン提督率いるブラジル艦隊がただちにベレーン市を砲撃すると告げさせたのだ。 
当然、これはブラフに過ぎなかった。 コクラン提督の艦隊はサンルイースにとどまっていたからだ。 
しかし、ポルトガル本国ともブラジル各地のポルトガル軍とも連絡はとれず、情報もぜんぜん入手できずに完全に陸上の孤島状態にあったベレーンのポルトガル守備軍は無駄な抵抗をするより降服することを選んだ。


一方、サンルイースにいたコクラン提督は、部下ともども略奪をはじめた(そのため同地を離れなかった?)。
コクランの一党はサンルイースのありとあらゆる金銀財宝を略奪した― それは県政府の金庫から港の倉庫に保管してあった貨物、停泊してあった120隻あまりの大小の商船の積荷、エトセトラ、エトセトラ… その収穫額は現在価値に換算して2千4百万ドルに達したというからその徹底的な略奪ぶりが想像できるというものである。 
しかし、サンルイースで海賊同然の略奪行為をしたコクランは、リオ・デ・ジャネイロに帰投するとブラジル解放の英雄として大歓迎された。 ペードロ1世皇帝からは、創設されたばかりの最高の国家勲章である南十字国家勲章を授章されるとともに、『マラニョン侯爵』の称号を授けられた。


19世紀のベレーン港
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しかしながら、コクラン提督が”戦利品”、つまり半分は自分のものになると思った獲得品(略奪品?)は、当初のブラジル政府側との合意内容とちがってすんなりコクランのものにならず、中にはもとの持ち主などへ返却されたものもあり、この”契約違反”に怒ったコクランはリオ・デ・ジャネイロの裁判所にブラジル政府を”契約不履行”として訴えた。

その間、さらなる報奨金を求めてペルナンブコ県レシフェの反乱軍を同じように海上封鎖によって制圧し、再度サンルイースへもどったコクラン提督は、マラニョン県政府に対して未支払いの報奨金を支払うように要求した。支払わなければ砲撃すると威嚇したのだ。 マラニョン政府はコクラン提督と交渉した末に、コクランの要求額の4分の1である金額、現在価格にして470万ドル相当を支払うことで合意に達した。 コクランはその金でマラニョン産の綿を買い込み、すべて英国に送って売り大きな利益を得た。

サンルイースで二度目の金儲けをしたコクランは、そろそろブラジルを引き上げる潮時と考えたのだろう、1823年5月18日にブラジルをあとにしてオスマン・トルコ帝国を相手に独立戦争をはじめていたギリシア軍を加勢するためにエーゲ海へと向かったが、その時に”行きがけの駄賃”とでも考えたのだろうか、なんとペルーでしたのと同じようにブラジル海軍のフリゲート艦ピランガ号(大砲50門搭載)を捕獲して英国へもって行ってしまった。

こうして旋風のようにブラジルを通りすぎて行ったコクランだが、もし、コクランという人間がいなかったならば、ブラジルは現在のように南アメリカ大陸の半分を占めるほどの国土をもてずに、おそらく東部や北部にポルトガル語を公用語とする隣国(パラー国、マラニョン国、バイア国?)をもつことになったものと思われる。

コクランはこれまで見てきたように、ブラジル独立に多大な貢献をしているが、ブラジル北部、とくにさんざん略奪をし尽くしたマラニョン州(当時は県)における彼の評判は最悪である。

ブラジルの歴史家の中には
”コクランは偽のブラジル北部解放者だ”(エルミーニオ・コンデ)
”ただの海賊にすぎない。町を解放するどころか略奪しただけだ”
”町の歴史の中でもっとも暗い部分とつながる人物”(アストルフォ・セーラ)
と辛辣に批判している。

興味深いことにブラジル南部でもコクランに対する非難は大きく、
”後年のブラジルの歴史の中ではコクランの(果たした貢献に対して)認識をするべきではない”(フランシスコ・アドルフ・デ・ヴァルンハゲン)とまでこき下ろされているし、リオ・デ・ジャネイロ市にある海軍博物館のギャラリーには他のブラジル海軍への貢献者とともにコクランの写真が飾られているが、その額は小さくとても来館者が注目するような扱いではないし、歴代のブラジル海軍艦艇で彼の名前が冠せられた艦船は皆無である。


リオ・デ・ジャネイロの海軍博物館
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大きな地図で見る


ブラジルとほかの元スペイン領植民地諸国の違い

このように、コクランは南米諸国の解放に決定的とも言える貢献をしているわけだが、同時期に独立をしたブラジルとその他のイスパノ・ラテンアメリカ諸国の間には大きな差がある。 
それは単に言語― ポルトガル語とスペイン語― の違いだけではなく、独立するにあたって選択した道が大きく違うということである。 
ブラジル独立の特徴は、独立にあたって内側から大きな影響と貢献を果たした人間たち、たとえばジョゼー・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァ(Jose Bonifacio de Andrada e Silva)やペードロ一世皇帝の后であったマリア・レオポルディナたちが目指したものは、王室を維持することによって、それを求心力としてブラジルの広大な領土を維持するというものだった。


”建国の父”と称されるボニファシオと”独立の母”と称されるレオポルディナ妃

    bonifacio1.jpg   D_Leopoldina.jpg


  これは、シモン・ボリーバルホセ・デ・サン=マルティンミゲル・イダルゴらの掲げた共和制や立憲君主制(の思想)を求心力とする解放・独立路線とは一線を画するもので、ブラジルは独立後、名目上は立憲君主制であったが、その実は専制主義であり、王政とあまり変わらないものであった。 したがって、植民地時代からのエリート層がそのまま権力を持ち続ける結果となり、それは先にも述べたペルナンブコなどの共和制主義者たちの運動の復活をもたらすことになった。

ブラジルが、曲がりなりにも専制主義を保つことによってその膨大な領土を分割することもなく維持できたのに対して、スペイン領であった南アメリカ諸国は、それぞれの地方の独立運動リーダーならび権力者の目的等の違いにより、スペイン語圏大国家を形成できずに分割した形で独立国家となった。


ナポレオンに関する逸話


最後にナポレオンにまつわる興味深いエピソードを紹介したい。
1821年にコクランがホセ・デ・サンマルティン将軍の招請に応じてスペイン領植民地の解放(独立)運動の加勢に行くことを決意したとき、ついでに1815年以来、南大西洋のセントヘレナ島に幽閉されていたナポレオンを救出する計画を考えていたことだ。 そしてナポレオンを南米に連れていき、植民地解放軍を指揮させてスペイン軍との戦いに勝利して独立を成し遂げた時点で元スペイン領植民連合国の帝王となって、北で頭角を現しつつあった米国とパワーバランスをとれるようにしようと遠大な計画を立てていたことだ。

惜しくも、コクランが南米でスペイン艦隊と戦う目的で英国で建造させていた”Rising Star号”の完成が遅れ、その時点で南米で植民地解放軍がスペイン軍に押されつつあるとの情報を入手したコクランは回り道をしているひまはないと判断し、チリに直行したためナポレオン救出作戦は実現しなかった。

面白いことに、同時期、正確にはその4年前の1817年に、ブラジルのペルナンブコが共和国宣言をして独立を図ったときに、ペルナンブコの共和主義者たちは、やはりナポレオンを担いでポルトガルとの戦争に勝利しようと計画し、米国に使者を送り、同国領に流刑されている元ナポレオン配下の将校を開放してもらい、彼らを使ってセントヘレナ島からナポレオンを救出し、ポルトガルとの戦争に勝利した暁にはフランスへ連れて帰り、みたびフランスの帝王にさせようと計画していたことである。
残念ながらこのペルナンブコ共和国の計画も実現せずに、ペルナンブコはポルトガル軍に蹂躙されてしまった。

しかし、コクラン、あるいはペルナンブコ共和国のナポレオン救出作戦のどちらか一つが成功していたら…
世界は違った歴史を歩いたかも知れない。


知らぬはナポレオンばかり…? 
しかし、もし実現していたらアンデス越えもあったかも…
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以上の内容は、私のメーンブログ『ブラジル大好きBlog』で取り上げた、ラウレンチノ・ゴメス著の『1808年』を参考とさせていただきましたが、別の機会にジョゼー・ボニファシオやマリア・レオポルディナ妃などについても取り上げたいと思います。


ラウレンチノ・ゴメス著の『1808年』
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Loby-M

≫まるさん、ご訪問&nice!あありがとうございます。
by Loby-M (2011-04-01 11:06) 

春分

これはすばらしい。きちんと読まないといけませんね。
知らないことが多く、十分な時間とメモリー力は益々減っているが。
ブラジルは魅力的です。BRICsとしてのビジネス対象として?
そればかりではないですね。「未来世紀ブラジル」のせいでも
ないですが(あれは好きな映画ですが)。

by 春分 (2011-06-04 12:05) 

Loby-M

≫春分さん、ありがとうございます。
 こういった”真の歴史”はたいへん興味深いですね。
 「未来世紀ブラジル」は興味深い作品でしたね^^b
 また見てみたい作品です。
by Loby-M (2011-06-06 08:34) 

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