アレキサンダー大王 [人物]

 電子書籍で『獅子王アレクサンドロス』(阿刀田 高 著)を読みました。

アレクサンドロスとは、アレキサンダー大王のことで、2004年にはコリン・ファレル主演の同名映画も作られており、観られた方も多いと思います。

ちなみに、アレキサンダーというのはギリシア語アレクサンドロス(Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)の英語読みだそうなのだそうです。ということなので、以後はアレクサンドロスと呼ぶこことにします。

阿刀田 高氏の作品は、以前、『プルタークの物語』を読んだことがあり、大げさな表現のない、淡々とした語り口が気に入っていたので、『獅子王アレクサンドロス』も躊躇することなく購入しました。


単行本『獅子王アレクサンドロス』の表紙 電子書籍版にはこのような素敵な表紙はありません

アレクサンドロス-本



『獅子王アレクサンドロス』は664ページもある長編なのでかなり読み応えがあります。 映画『アレキサンダー大王』を先に観ているので、どうしても小説と映画を比較してしまいますが、映画がかなり史実(伝記)に忠実に作られているということがわかります。


映画『アレキサンダー大王』でのアレクサンドロスの雄姿
アレクサンドロス

     



しかし、当然、時間に制限のある映画では、原作をかなり省略して制作するのも常識で、たとえば、映画でのクライマックスの一つであるペルシャ帝国との戦いは、「ガウガメラの戦い」(BC 331年)しか取り上げられていませんが、小説の方ではその前の戦いで、その後のペルシャ軍との戦いに重大な影響をあたえることになった「イッソスの戦い」についてはまったく取り上げていません。

ペルシャ帝国の命運を分けることになった「ガウガメラの戦い」では、5万足らずのアレクサンドロス王率いるギリシア連合軍が20万とも30万とも言われるペルシャ軍と対峙し、戦術的、軍備的にすぐれたギリシア連合軍が見事にペルシャ軍を敗走させるわけですが、この戦いにおける勝利の遠因となったのが「イッソスの戦い」であったわけです。


マケドニア時代

 ここでマケドニア時代のアレクサンドロスについて少し見てみましょう。
アレクサンドロス3世は紀元前356年7月に、マケドニア王ピリッポス2世とエペイロス王女オリュンピアスの間に生まれました。アレクサンドロス王子が14歳の時、父親のピリッポス2世は当時ギリシア最高峰の識者・哲学者であったアリストテレスを家庭教師として招待し、アレクサンドロスおよび選ばれた若者たちに学ばせます。アレクサンドロスは16歳の頃よりピリッポス王を手伝ってマケドニア王国の行政に携わります。
ちなみに、アレクサンドロスは「ミエザの学園」で、2年間に渡りアリストテレスに師事したわけですが、この時、いっしょにギリシア教養を学んだ学友たちは、アレクサンドロスが大王となった後、将軍となって彼を支え、マケドニア王国の勢力を広げる原動力の一つとなります。東征中、大王の要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれます。アレクサンドロス大王も、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けました。

アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス
Alexander_and_Aristotle.jpg




アレクサンドロスの戦い

  紀元前338年8月初旬、ピリッポス2世はギリシア地方に出兵し、弱冠18歳のアレクサンドロス王子も一軍の将としてカイロネイアの戦いに参加します。
これは、ピリッポス2世のもとで急速に強大化したマケドニアに脅威をおぼえたアテナイ(現在のアテネ)がテーバイと同盟を結んでマケドニアの勢力拡大を阻もうとしたものです。
アレクサンドロスにとっては初陣でしたが、このとき王子は精鋭の騎兵を率いてアテナイ・テーバイ連合軍を壊乱させ、マケドニアの勝利に大きく貢献しました。
戦いはピリッポス王の率いるマケドニア軍右翼の攻撃により始まりました。ところが、交戦に入るとピリッポス王は右翼軍を後退させました。それを見て自軍が優勢にあると勘違いしたアテナイ軍は前進し、総攻撃を開始。この前進により、アテナイ軍とボイオティア軍との間に隙間ができ、そこへアレクサンドロス王子率いるヘタイロイ(重装騎兵部隊)が突入し、同時にテッサリア騎兵と最左翼の軽装歩兵もボイオティア軍を側面から攻撃し、ボイオティア軍は左右から包囲される形となりました。
また、アテナイ軍はマケドニア軍右翼と中央による逆襲を受け、敗走をしていました。マケドニアの新式ファランクスの前には既存のファランクスなど敵ではなかったのです。
包囲されたボイオティア軍は逃げることもできず、多くの兵士が討ち死にしました。中でもテーバイの精鋭部隊であった神聖隊は300人中254人が戦死するという壊滅的打撃を被ったのです。
 ピリッポス2世はこれによってギリシア諸ポリスにヘラス同盟(コリント同盟)を締結させ、全ギリシアの覇権を握り、続いてペルシア遠征を計画しましたが、紀元前336年に護衛のパウサニアスに暗殺されます。
父王の死により、20歳の若さでマケドニア王をとなったアレクサンドロスは、国内の敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦うためにイストロス川方面に遠征して成功をおさめ、その隙に反旗を翻したテーバイを破壊し、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスを制圧したアレクサンドロスは、マケドニア本国を重臣アンティパトロスに任せました。


ピリッポス2世時代のマケドニア領地(赤い部分)
古代マケドニア



ファランクス

ファランクス(phalanx)は、古代において用いられた重装歩兵による密集陣形で、ギリシア語で『指骨』を意味し、紀元前7世紀ごろに、ギリシャのポリスにおいて確立されました。
ギリシャのファランクスは、重装歩兵(ホプリタイ)によって構成されていました。ホプロンという重い盾を連ねて密集し、兜、脛当てなどで装備し、槍で攻撃したのです。盾は自分の右半分を守るために用い、左半分は隣の戦友を守るために用いられました。戦闘の際は、歩調を合わせて正面から衝突し、盾の隙間から、敵の弱点を突きました。 ファランクスの形成するこの一体化した武装集団は、当時としては驚異的な防御力と攻撃力をもち、その破壊力は相当なものでした。しかし、装備する兜が耳をすっぽり覆ってしまうので指揮官の命令がよく聞こえず、また、一度前進を始めると、途中で止めるのはほぼ不可能という難点がありました。
ファランクス戦法の”向かうところ敵なし”的な強さは、ファランクスを多用したアテナイ人やスパルタ人たちにファランクス無敵という過信をあたえ、それは以降のギリシャにおける戦術の発展を阻害し、後にギリシャがテーバイのエパミノンダスの新戦術「斜線陣」に敗れる原因ともなります。
また、ひとたび隊列が崩れれば立て直しようがなく、敗北は必至でした。さらに、逃走する際も、装備が重いために軽装歩兵にすぐに追いつかれて背中に攻撃を受けることが多く、投擲兵器に対しても無力でした。
 一方、当時のマケドニア軍は、隊列が8列程度であった従来の密集方陣を改変し、6メートル長槍を持った軽装歩兵による16列×16列の集団を1武装集団として構成。 この集団が横に並ぶことで方陣を形成しました。マケドニア式ファランクスの歩兵は、より小型にした盾を腕ではなく胸に装備させることにより機動性を向上。また、両手で長槍を支えることができるようになったのも大きな実戦効果を生み出すことになります(逆に言えば、6メートルもある長槍は両手でないと扱えなかったと言える)。
 アレクサンドロスの父であるピリッポス2世は、3年間テーバイで人質生活を送りましたが(人質といっても牢獄に幽閉されていたわけではなく、ある程度の自由が許されており、彼の才能を見込んだエパメイノンダスの家で教育も受けていた)、この時期にエパメイノンダスの考案した改良型ファランクス戦法などを研究し、マケドニアに帰国して王位を継ぐとマケドニア式ファランクスを作り上げました。
マケドニア式のファランクスでは、本隊の歩兵右側に常備の近衛歩兵を置き、左側へ傭兵である軽装歩兵を配置。右翼には突撃力で優れるヘタイロイ部隊(重装備騎兵隊)、左翼にはテッサリア人騎兵を配置し、前衛は弓が主装備の歩兵と軽騎兵で構成しまいした。左翼で防御している間に、右翼での敵戦列突破を行うマケドニア式のファランクスは、側面からの攻撃に弱い従来のファランクスを圧倒しました。このように片翼で守り、もう片方の翼を打撃部隊とする戦術は「鉄床戦術」と呼ばれます。
このマケドニア式のファランクスを駆使して、ピリッポス2世はアテナイ、スパルタ、コリントス等々ギリシアの諸都市を打ち破り、ギリシア全土を制覇します。
アレクサンドロス王が父王から継いだのは、王冠だけでなく、この最強無敵のマケドニア・ファランクス戦法だったのです。


当時最強を誇ったファランクス(重装歩兵密集隊)
farankusu.jpg

マケドニアのファランクス1集団は約9千人の兵力から構成されており、下図のような編成であった。

farange macedonia



ペルシャ東征

 つまり、ダレイオス3世のペルシャ軍が「イッソスの戦い」で相まみえることになったアレクサンドロス王率いるギリシア連合軍には、この無敵のマケドニア・ファランクス含まれていたというわけです。
「イッソス」の戦いにおけるギリシア連合軍とペルシャ軍の兵力は、マケドニア軍+コリント同盟軍(ギリシア連合軍)約4万(重装歩兵2万2千、軽装歩兵1万3千、騎兵6千)vs ペルシャ軍10万(不死隊1万、騎兵1万1千、ギリシア傭兵1万、残りは軽装歩兵)で、ペルシャ軍の方が圧倒的に優位だったわけですが、天才的ともいえる指揮官、アレクサンドロスに率いられたギリシア連合軍は戦術的優位で数量的優位のペルシャ軍を突破し、アレクサンドロス王を先頭にいだいた騎兵隊はペルシャ軍の本陣を襲撃し、ダレイオス3世を驚かし、遁走させ、ペルシャ軍総崩れを起こさせました。
アレクサンドロスを獅子と呼ぶのは、単なる美辞麗句ではなく、いかなる戦いにおいても常に先陣を切って突進し、マケドニア軍を勝利に導いた勇猛さから来ているのです。

「イッソスの戦い」を描いた『アレクサンドロス大王の戦い』
(アルトドルファー画ミュンヘン博物館蔵)
altdorfer_alexander.jpg

ナポリ博物館蔵の「イッソスの戦い」のモザイク壁画。
右の戦車上にいるのがダレイオス3世で左がアレクサンドロス王 i-napori.jpg


また、映画『アレキサンダー大王』では、アレクサンドロスはかなり同性に関心をもっている(男色)ことが強調されていますが、小説の方ではその方には触れていません。
まあ、あの時代は、戦士などが同性と仲良くなる(○モだち?)なんていうのはごく普通だったようですので、アレクサンドロス王も一応(?)その方の経験もあったかも知れませんが、これはちょうど戦国時代の織田信長と同じようなものだと考えればいいので、とくに気にすることはないでしょう。

アレクサンドロスの女性関係については、映画ではペルシャ帝国支配下にあった、中央アジアのバクトリア王国の豪族であったオクシュアルテスの娘、ロクサナとの(政略)結婚だけが取り上げられていますが、歴史(伝記)上では、「イッソスの戦い」の直後に、敵の武将であったバクトリア太守のアルタバゾスの娘バルシネを愛人としており、小説の中でも彼女の比重がかなり大きく扱われています。
ちなみに、アレクサンドロス王とバルシネの間には一子(ヘルクレス)が生まれています。

「イッソスの戦い」での劇的勝利のあと、アレクサンドロス王はエジプト、フェニキアと次々に征服し、さらに力をつけます。 一方、「イッソスの戦い」で一敗地にまみれたダレイオス3世は、形勢を逆転しようと再度軍備を整え、ガウガメラの地で雌雄を決せんとします。 これが史上有名な「ガウガメラの戦い」です。(参考アレキサンダー大王-ガウガメラの戦い


「ガウガメラの戦い」が行われた場所
ガウガメラ


ガウガメラの決戦を前に、ギリシア連合軍の兵士を激励するアレクサンドロス王
アレクサンドロス-01


当時、世界最強を誇ったマケドニアのファランクス。6メートルもの長槍を装備していた
ファランクス



双方の兵力は、

    マケドニア/ギリシア連合軍                

     指揮官 アレクサンドロス3世
     戦力
          7,000 騎兵
         40,000歩兵


    ペルシア帝国軍

     指揮官 ダレイオス3世
     戦力
        150,000 歩兵 (一説では200,000とも)
         35,000 騎兵
          6,000 ギリシア傭兵
           200 戦車
             15 戦象
 

「ガウガメラの戦い」(ヤン・ブリューゲル画)Wikipediaより
Battle_of_Gaugamela.jpg

「ガウガメラの戦い」の動画。ヒストリーチャンネルの番組録画ですが、英語の解説が分からなくても結構、ガウガメラの戦いの様子(両軍の戦術)がわかります。

こんな動画も。まるで映画みたいです。



「ガウガメラの戦い」におけるペルシャ軍の戦力は、一説では百万とも言われていますが、明らかにこれは誇張で、上記の数字がほぼ正確に近いと考えられています。
「イッソスの戦い」で一敗地を喫したダレイオス3世は、前回の轍を踏むまいと、ガウガメラでは平原に布陣しマケドニア軍を迎え撃つ計画で待機していましたが、アレクサンドロス王の挑発戦術に引っかかって先に戦端を開いてしてしまいます。そしてマケドニア軍騎兵によるペルシャ軍部隊前の移動にしたがって空いた間隙を縫ってアレクサンドロス王を先頭とする騎兵が突進、猛攻につぐ猛攻でダレイオス3世の本陣に急迫したためダレイオス3世の本陣は大混乱。
ここでダレイオス3世の脳裏にはは前回の「イッソスの戦い」での恐怖がよみがえったのでしょう、総大将であるダレイオス3世は乗っていた戦車を180度転回させ、一目散に逃げ始めたのです。
総大将が一目散に逃げ出したのだから、後がどうなるかは兵法などまったく知らない者でもわかる結末となりました。すなわち、ペルシャ軍の総崩れです。
結果としてペルシャ軍は4万人もの死傷者を出す大敗北となり、一方、アレクサンドロスのギリシア連合軍の死傷者はわずか(500人~4千人といわれている)という大勝利でした。
つまり、「ガウガメラの戦い」においてペルシャ軍の決定的敗因(遠因)となったのは、ダレイオス3世が「イッソスの戦い」の時に負った"心理的恐怖トラウマ”だったと言えるでしょう。
また、アレクサンドロス王の勇猛さ、マケドニア軍の無敵さは、ペルシャ王でなくても誰でも畏怖させるものだったということです。


ここで少しマケドニア軍の強さの秘密について見てみましょう。
マケドニア軍の強さは、すでに前述した当時西側世界で最強のファランクス戦法に加えて、騎兵戦術を重用したことでしょう。馬は必要数の確保や地形に起因する運用の難しさからギリシアの都市国家ではあまり重視されなかったのですが、騎兵の機動力を十分に訓練された重装歩兵(ファランクス)と組み合わせる戦術を駆使したマケドニア軍は、当時最強の戦闘力を誇る軍隊となりました。
ちなみに、この騎兵と重装歩兵を組み合わせた戦術は、後のローマ帝国にも引き継がれて、無敗のローマ軍を築いたことでも有名です。
また、マケドニアの将兵は、その軍務に誇りを持つ精強の兵士でもありました。アレクサンドロス王自ら行軍中でも荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられています。
彼は常に最前線で将兵とともに戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことも度々であったと言われていますが、古代ギリシアにおいては、指揮官は後ろの安全な場所にいるのではなく、自ら先頭に立って身をさらして戦う習慣があったため、これはアレクサンドロスに限った特別なことではないようです。
ただし、数々の戦場で危機を乗り切り、勝利を獲得したアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気と信頼を得ていました。


かくして、ペルシャ帝国は急速に力を失い、アレクサンドロス王は、 バビロン、スーサといったペルシャの主要都市を手に入れ、また帝都であったペルセポリスを焼き払ってしまいました。
ペルセポリスに関しては、こちらのサイトに素晴らしい画像がありますので、興味ある方は見てくださいね。
ペルセポリス王宮の遺跡の規模を見れば、ペルシャ帝国がどれほど繁栄をした大国であるかが彷彿されます。とにかくものすごい規模の王宮です。

ペルセポリスの遺跡の動画



世界帝国創立とインド遠征
 
ダレイオス3世は紀元前330年に暗殺され、さしもの栄華を誇ったペルシャ王朝も滅亡してしまいます。
この頃からアレクサンドロスは自ら「大王」と名乗るようになり、さらに東方に軍を進め、中央アジアを制覇したのち、インダス川を渡り、インドにまで攻め込みます(BC326)。

アレクサンドロス大王が征服した地域と遠征コース
制覇した地域



 インド進入後、アレクサンドロス大王軍は、緒戦(ヒュダスペス河畔の戦い)では勝利を収めたものの、8年もの長期間母国を離れて転戦してきたごりシア兵士の間には厭戦気分が広がったことと、インド諸侯軍がさらに強力な軍を整えて迎え撃つべく準備をしているとの情報もあって、スーサに帰還します(BC323)。

バビロンでしばらく統治をしながら、アラビア遠征を計画していたアレクサンドロス大王は、急に病に倒れ、33歳という若さで急逝しました。 かくして、世界の歴史を変えた一代の英雄は歴史と伝説をのこして去り、残された大帝国は内部闘争で急速に分断・崩壊してしまいます。



映画『アレキサンダー大王』の予告トレーラー




ヘレニズム

アレクサンドロス大王について語るときに、忘れてはならないのが「ヘレニズム」です。
Wikipediaによれば、”東方遠征によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合して誕生した文化を指してヘレニズム文化と称される” とあり、アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)たちが開いた諸王朝でギリシャ系の支配者がエリート層を構成しつつ、土着(オリエンタル)文化とギリシャ文化が混ざり合った文化が形成されて一大文化交流が興りました。


ヘレニズム諸国

アンティゴノス朝マケドニア王国
セレウコス朝シリア王国
アッタロス朝ペルガモン王国
プトレマイオス朝エジプト王国


有名な「ミロのビーナス」もヘレニズム文化の芸術作品です
Venus de Milo.


時代的には、最後のヘレニズム王朝は、紀元前30年にプトレマイオス朝のエジプトがローマに併合されたことによって終焉しますが、その後もギリシア文化はローマ世界に強い影響をあたえ続け、ギリシア語は東地中海地域の共通語として使われ、ヘレニズム文化が興隆しました。
ローマ帝国分裂後も7世紀以降の東ローマ帝国では支配地域・住民がギリシャ語圏であったためにヘレニズムの伝統が重視され、キリスト教と融合した「ビザンティン文化」が生まれる下地となりました。

また、ヨーロッパ文明の源流をヘブライズム(ユダヤ教、キリスト教)と、ヘレニズムに求める見解は、19世紀にマシュー・アーノルドによって示されており、以降も同様の見解はヨーロッパ文明を説明する上で一般的に用いられています。(以上、Wikipediaより引用)



ヘレニズム時代のアート作品
ゼウスかポセイドン

つぼ


 


参照:『アレクサンドロス大王』(阿刀田 高 著)
    Wikipedia
    マケドニアのファランクス










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