偉大な女性科学者 マリー・キュリー [人物]

 国連は今年がマリー・キュリーのノーベル化学賞受賞から100年目に当たることから、2011年を「世界化学年」(International Year of Chemistry:IYC2011)とすることを決めました(2011年はまた、国際純正・応用化学連合(IUPAC)が設立されて100年にも当たります)。それにちなみ、今回は日本ではキュリー夫人の名前でよく知られているマリー・キュリーの生涯について書くことにしました。 

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マリー・キュリー(Marie Curie 1867年11月7日~1934年7月4日)は、ポーランド、ワルシャワ生まれの物理学者・化学者。ポーランド語の呼び名はマリア・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie)。一般的にはキュリー夫人の名前で知られている。放射線の研究で、1903年に女性としては世界で始めてノーベル賞を受賞(物理学)。また1911年にはノーベル化学賞も受賞。パリ大学初の女性教授にも就任している。放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による。

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幼少期

マリー・キュリーは1867年11月7日にポーランドのワルシャワで5人兄弟の末っ子として生まれました。 生まれた時の名前はポーランド語名でマリア・サロメ・スクウォドフスカ(Maria Salomea Skłodowska)であり、父ブワディスカ・スクウォドフスキは下級貴族階級出身で、ペテルブルク大学で数学と物理を教える科学者であり、母ブロニスワバ・ボグスカも同じく下級貴族階級出身で、女学校(ボーディングスクール)の校長をしていました。なお、父方の祖父ユゼフも物理・化学の教授であり、マリア・サロメは科学者・教育者を育成するのに恵まれた環境の中で育ちました。 マリアは幼少の頃から聡明で、4歳の時にはすでに姉の本を朗読できたそうです。それに記憶力も抜群でした。 当時、ポーランドはウィーン会議にて分割され、事実上ロシアの支配下にありました。ロシアは当然のように、ポーランドのインテリ層を監視し、反ロシア運動を常に警戒していました。 マリアが6歳の時、父親が密かに講義を行っていたことが発覚して職と住居を失い、さらに母親も結核で身体を壊してしまいました。貧窮した一家にさらに悲運は重なり、1874年に一家はチフスに罹り、長姉ゾフィアが亡くなり、ついで1878年には母親が結核で亡くなっています。14歳のマリアは深刻な鬱状態に陥り、母に倣ったカトリックの信仰を捨て、不可知論の考えを持つようになったといわれます。

マリア・サロメ・スクウォドフスカ(16歳)
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パリでの苦学と青春

  マリアは1883年6月に、ギムナジウムを優秀な成績(金メダル受賞)で卒業しましたが、当時、女性には進学の道は開かれていなかったため、住み込みの家庭教師などをしてしていた時に、非合法の”さまよえる大学(別名ワルシャワ移動大学)を知り、そこでさらに勉学を進めます。
この時期にマリアは、彼女の父方の親戚筋に当るゾラフスキ家の長男でワルシャワ大学で数学を学んでいたカジュミェシュと知り合い、恋仲となり結婚を考えますが、カジュミェシュの家族の反対でできませんでした。失意のマリアはその後も家庭教師をしながら、農工博物館の実験室で科学研究の技能習得に努めます。
1890年、すでに結婚してパリに住んでいた姉から、パリで一緒に住むようにとの誘いを受け、翌年の10月、マリアはパリに移り、ソルボンヌ大学(現在のパリ大学)で物理、化学、数学を学び始めます。ソルボンヌ大学は、当時、女性でも科学教育を受講することが可能な数少ない教育機関の一つだったのです。そしてこの時に名前をマリアからフランス語風読みのマリーに変えました。
しばらく姉夫婦と一緒に住んだ後、勉学に専念するために7階建石造りアパートの屋根裏部屋を借りて引っ越したマリーは、昼は大学で学び、夕方はチューターを務める一日を送っていましたが、チューターをして得られる給金などたかが知れたもので、生活費に困り3度の食事もろくに取れず、暖房も無かったため寒い時には持っている服をすべてを着て寝るというような苦労を重ね勉学に励みました。ある時は栄養失調が原因で倒れて、医師である義兄の面倒になったこともありましたが、努力の甲斐あって1893年には物理学の学士資格を習得しました。実はこの年は、貯蓄が底をついたこともあって大学での勉強を一度は諦めましたが、同郷の学友たちがマリーのために奨学金を申請したおかげで勉学を続けることができました。

 

マリア・スクウォドフスカが学んだ頃のソルボンヌ大学

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 学士号習得後、マリーはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を得るようになりましたが、相変わらず屋根裏部屋の質素な生活を続け、そんな状況の中でも貯蓄し奨学金を全額返済しています。
また、この時期にマリーは将来の夫となるピエール・キュリーと知り合います。マリーが工業振興協会からの受託研究に必要なスペースをもつ場所を探していた時に、その場所を提供してくれるかも知れない人物としてピエールを紹介してもらったのです。

当時、ピエールは若干35歳。パリ市立工業物理化学高等専門大学 (EPCI) で教鞭をとる傍ら研究をしていました。ピエールは当時フランスではほとんど無名でしたが、イオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており、 キュリー天秤の開発や後にキュリーの法則へと発展した基本原理などをすでに解明しており、1893年にはイギリスのウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿) がわざわざ訪ねて来るほどフランス国外では天才の評判の高い科学者でした。
しかしピエールは超マジメでかなり頭の硬い青年科学者だったようで、彼自身は名誉とか女性との交際などは研究の邪魔だとでも考えていたのでしょう、そんな 事は念頭にも置いていなかったようです。フランス政府が授与しようとした勲章を断り、薄給と粗末な研究設備という決して恵まれているとは言えない環境の中 で一生懸命に研究に打ち込む日々を送っていました。ちなみに、ピエールは異性観について、日記に「女性の天才などめったにいない」と記しており、自分の学 問的探求心を理解してくれる女性などいないと半ば悲観的に考えていたことが分かります。

ピエール・キュリー
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ピエールとの運命の出逢い

二人が出会ったのは1894年の春。初対面でピエールを見た第一印象を、マリーは「長身で瞳は澄 み、誠実で優しい人柄がうかがえたが、どこか奔放な夢想家の雰囲気をもっていた」と語っており、科学や社会のことを話し合って、”自分と共通するところを 多く感じた”ようです。ピエールもマリーに対して、たいへん良い印象をもったようで、いわゆる一目惚れに近かったようです。
後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を受賞することになるキュリー夫妻はこうして運命の出逢いをしました。 マリーは必要な学位を修得後、 ポーランドに帰国して教職につくことを考えていましたが、当時のポーランドの大学は女性を教員として採用しなかったため、パリに戻ってきました。
一方、ピエールは彼女にぞっこん惚れきっていて、何度も求婚します。ピエールの情熱が実り、マリーがピエールのプロポーズを受け結婚式を挙げた1895年 7月で、教会での誓いも指輪も祝宴ない質素な式でしたが、式には父や姉たちもポーランドから参加してくれました。家族と友人たちに祝福される中で式を終え た二人は、祝い金で購入した自転車に乗って田園地帯を巡る新婚旅行に出発しました。こうしてマリーは、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得たの です。

ピエールとマリー
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 グラシエール通りのアパートで二人のつつましくも幸せな新生活が始まりました。
マリーはパリ市立工業物理化学高等専門大学(EPCI)で磁気の研究を続けながら家事をこなし、さらに家計を助けるために中・高等教育教師の資格を取得し ました。1897年9月12日には長女イレーヌ・ジョリオが生まれ、同年末には鉄鋼の磁化についての研究論文を発表しています。
マリーはピエール相談して、博士号取得という次の目標を立てました。二人は1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが報告した、ウラン塩化物が放 射するX線に似た透過力を持つ光線に着目しました。これは燐光などとは異なり外部からのエネルギー源を必要とせず、ウラン自体が自然に発していることが分 かっていましたが、その正体や原理は未解明であり、発見者のベクレル自身も研究を放棄していたのです。マリーとピエールは論文作成のためこの研究を目標に 決めました。

キュリー夫婦が新婚時代を過ごした時代のグラシエール通り
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放射性元素とラジウムの発見


 ピエールが論文研究のために確保したパリ市立工業物理化学高等専門大学のラボラトリーは、倉庫兼機械室を利用した暖房もない粗末なものでした。 そこに ピエールとマリーはさまざまな計測器などの機器を持ち込み、ウラン化合物の周囲に生じる電離を計測し、サンプルの放射現象がウラン含有量に左右され、光や 温度などの外的要因に影響を受けないという結論に達しました。つまり、放射は分子間の相互作用等によるものではなく、原子そのものに放射を発する原因があると いう結論に達したのです。これは、キューリ夫妻が発見したものの中で最も重要な発見でした。マリーは、この現象がウラン固有の特性かどうかを調べるために 既知の元素80以上を測定し、トリウムにも同様の放射があることを発見しました。これらの結果から、マリーはこれらの放射に放射能(radioactivity)、そしてこのような現象を起こす元素を放射性元素(Radioelement)と名づけました。
マリーは研究結果を論文にまとめ、1898年4月12日にフランス科学アカデミーに提出しましたが、残念ながらトリウムの発見は2ヶ月前にドイツのゲアハルト・シュミットがすでに発見し論文を発表していました。 次にピエールとマリーが研究目標として選んだのは、トルベルナイト(燐銅ウラン鉱)に含まれていると推定した新しい放射性元素の特定でした。1898年7月、ポロニウム(Po 原子番号84)と名づけた新元素を発見、キュリー夫妻は連名で論文を発表。ついで、12月26日には、激しい放射線を発する新元素も発見、これはラジウム(Ra 原子番号88)と命名しました。

 

ラジウムの原子構造モデル
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  しかし、キューリ夫妻の新元素発見の発表に対し、学会の反応は冷淡でした。
物理学者たちは、新元素の放射線がどのような現象から生じるのかが解明されてなかったため、この新発見に対して表明を出さず、化学者たちは新元素ならその 原子量を明らかにする必要があると主張しました。それらの要求に応えるためには、純粋な新元素の塊(決勝)が必要でした。マリーはただちにその作業にとり かかりました。しかしピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)は非常に高価で、それを入手する資金などないピエールとマリーはいろいろ考慮した上で、ガラス製造時の着色用に使用されるウラン塩を 抽出した後の廃棄物を利用することを思いつき、主な生産地であるオーストリアの鉱山から無償で提供を受けれるよう交渉しました。しかし運送費は自分たちが 負担しなければならず、家計を圧迫する要因となりました。精製に必要な広い場所は、ピエールが大学側(EPCI)と交渉し、以前、医学部の解剖室に使われ ていた床板も無い小屋を借りることにしました。この小屋こそキュリー夫妻が歴史に残る輝かしい業績を生む舞台となったのです。

ピッチブレンド(黒色部)
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Uranium Mine, #16, Pribram-Haje, Central Bohemia, Czech Republic.

 


 ピッチブレンドは複雑な化学組成を持つ混合鉱物であり、分離精製は非常に困難なものでした。
ピエールとマリーは、ラジウム塩を特殊な結晶化(分別結晶法) をさせて取り出すという方法で精製に取り組みましたが、それは過酷な肉体労働を要求するものでした。数キロ単位の鉱石屑を大鍋や壷で煮沸・攪拌・溶解や沈 殿・濾過などの方法で分離し、溶液を分離結晶させるということを何段階も何段階も繰り返す作業が来る日も来る日もくり返されました。
小屋には煙突も無く、大きな火を使う作業はすべて屋外で行われました。また、精製作業と平行して放射能の研究もしなければならず、やがて夫婦で仕事が分担 され、細かな研究はピエールが、精製作業はマリーがするようになりました。しかし最初に手に入れた1トンを精製処理しても必要な量の結晶は得ることはでき ませんでした。キュリー夫妻は新元素の含有率を1/100(百分の1)程度と推定していたのですが、実際は1/1000000(百万分の1)であり、 キューリ夫妻が必要な量の純粋な”新元素”の結晶を得るためには数トンにもなる鉱石量が必要だったのです。
この当時、キュリー夫妻はかなり経済的に苦しい状態にありました。実験にかかる経費の負担、妻を亡くした義父ウジューヌが一緒に住む事になったため、広い 一戸建ての家に移ったことによる家賃増などの生活費を稼ぐため、二人とも教職を続ける必要がありました。 ピエールは収入を増やそうとソルボンヌ大学の教 授職に応募しましたが、師範学校を出ていなかったため採用されませんでした。そんな折にスイスのジュネーヴ大学から夫妻へ好条件の教授職オファーが来まし たが、実験との両立ができないため辞退しました。
夫妻の窮状を知った数学者のアンリ・ポアンカレは、 優秀な頭脳の国外流出を防ぐために骨を折ってピエールをソルボンヌ医学部の物理・化学・博物学課程(PCN) 教授に招聘し、またマリーもセーブルの女子高等師範学校の嘱託教師となることができました。こうして収入は少し増えましたが実験費用を補うには焼け石に水 程度でした。

キュリー夫妻と長女イレーヌ

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 苦労の甲斐あって、ポロニウムは化学的性質がビスマス(Bi 原子番号83)に近いため、鉱石の中でビスマス様物質を探すことで比較的簡単に必要量の結晶を抽出できるようになりました。しかしラジウムの結晶抽出は一筋縄ではいきませんでした。ラジウムと化学的性質が近い元素にバリウム(Ba 原子番号56)がありますが、鉱石中にはバリウムとラジウムの両方が混じっていたのです。1898年の段階でキューリ夫妻はラジウムの痕跡を掴んでいましたが、まだ純粋な結晶を必要量抽出できていませんでした。
劣悪な作業環境と過酷な作業、そして逼迫した家計を賄うための教職という多忙さは、ピエールとマリーの健康にまで悪影響を及ぼしてきたため、ピエールは精製を一時中断することも考えましたが、マリーは少しずつだけど着々と進む作業に希望を見出していました。
1トンのピッチブレンドから分離精製できたラジウム塩化物は0.1グラムにしかなりませんでしたが、放射性元素は次第に濃縮され、やがて試験管や蒸発皿から発光が見られるようにまでなっていました。マリーはこれを”妖精のような光”と日記に記しています。
1902年3月には濃縮に効果的な試薬を発見し、これを用いて精製した試料のスペクトルがラジウム固有のものであることを突き止め、夫妻は純粋ラジウム塩が放つ青い光にたいへん感動したと日記に書いています。結局、キューリ夫妻は純粋ラジウム塩を得るまでに約3年半という時間と11トンのピッチブレンドを精製処理する必要があったのです。

ポロニウム
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緑色の光芒を放つラジウムの結晶
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しかし、喜びもつかの間、度重なる不幸がキューリ夫妻を襲います。1902年5月にマリーの父ブワディスカが死亡します。ピエール とマリーは研究を続けますが体に変調をきたし、ピエールはリウマチを悪化させて発作に苦しみ、マリーは神経を衰えさせ夢遊病になります。さらに翌年の 1903年にはマリーは流産してしまいます。
このような苦境の中で進められ得られた研究結果をキューリ夫妻は次々に論文にして発表しました。 ピエールとマリーは、1899年から1904年にかけて、実に32におよぶ研究論文の発表を行ったのです。それらは科学者たちに放射能や放射性元素に対する既存の認識を再検討させることになりました。放射性元素への追求はいくつかの同位体(isotope)発見に繋がり、さらにウィリアム・ラムゼーフレデリック・ソディによって、”ラジウム崩壊によるヘリウム発生”の確認がされ、アーネスト・ラザフォードとフレデリック・ソディの元素変換説などがもたされることになります。これらは、当時、”元素は不変”と信じられていた概念の変革を迫り、原子物理学に大きな発展をもたらすことになったのです。

 

研究所でのピエールとマリー
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  さらに1900年になると、ドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルは、”放射線が生物組織に影響をあたえる”という論文を発表。ピエールは早速、ラ ジウムを腕に貼り付け、火傷のような損傷ができることを確認しました。そして医学部教授らと協同研究した結果、ラジウムには変質した細胞を破壊する効果が あることを確認し、ラジウムは皮膚疾患や悪性腫瘍を治療する可能性があるということを発表しました。これは後に「キュリー療法」と呼ばれることになりま す。 こうしてラジウムは「妙薬」として知られるようになりました。この頃、夫妻は放射線被曝の有害な影響についてまったく認識しておらず、放射性物質を 扱う作業にも一切防護対策を行なっていませんでした。夫妻は、ラジウムのような放射性元素の研究がどれだけ健康にリスクをもたらすかまったく知らなかった のです。

新元素ラジウムは、学問対象に止まらず、産業分野でも有用性が次々と明らかにされましたが、キュリー夫妻はラジウム精製法に対する特許を独占せずに一般公 開しました。そのために他の科学者たちは何の妨げもなくラジウムを精製することができました。フランスの実業家アルメ・ド・リールはラジウムの工業的生産 に乗り出し、夫妻の協力を仰ぎ、医療分野への提供を始めました。こうしてラジウムは世界で最も高価な物質となったのです。
 放射性物質の研究は元々マリーの博士号取得を目的に始められたのですが、多忙のためなかなか博士論文を纏められませんでしたが、ようやく論文を完成させ提出し、1903年6月にパリ大学の理学博士号 (DSc)を授けました。
キューリ夫妻の業績を最も早く評価したのは英国でした。1903年6月、英国王立研究所はキューリ夫妻を正式にロンドンに招待し、講演を依頼。ピエールは講演は大好評でした。またマリーは王立研究所の会合に初めて出席した女性となりました。さらに11月には王立協会からデービーメダル(王立協会が化学の分野で非常に重要な発見に対して贈る賞)が授与されました。

 

英国王立協会のデービーメダル
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 1903年12月、スウェーデン王立科学アカデミーはピエールとマリーそしてアンリ・ベクレルの3人にノーベル物理学賞を授賞する決定をします。ただし、授賞理由は、”アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究で特筆すべきたぐいまれな功績をあげた”ことでした。こうしてマリーは、女性初のノーベル賞を授与された科学者となりました。キュリー夫妻は授賞式には出席しませんでしたが、賞金の7万フランは一家の経済状態を救っただけでなく、金銭的に恵まれない知人や学生たちのためにも役立てられました。
マリーへのノーベル賞の審査が行われた際、アカデミーは物理学賞を授与する方向で検討を進めていましたが、選考委員会の中には新元素発見は化学賞が該当す るのではという疑問の声があったため、1903年度受賞理由からはラジウムとポロニウムの発見はあえて外され、将来の授与に含みを持たせる対応が行われて います(それにしたがって、後年、マリーは物理学賞を授章)。

 現在でこそノーベル賞と言えばたいへん権威のある、すべての科学者が夢にま で望む賞ですが、1901年にノーベル賞の受賞が始まった当時は、それほど価値のある賞とは評価さられていなかったようです。ノーベル賞の創立者であるア ルフレッド・ノーベルは、彼が発明したダイナマイトが主に戦争で大量に使用されたことにより財をなした人間で、”罪滅ぼし”的にノーベル賞を創設したよう なものだったので、それこそ”良識”ある者や科学者からはそれほど評価されてなかったのかも知れません(科学者はそれほど高潔ではない?)。これもピエー ルとマリーが授賞式に出席しなかった理由かも知れません。 ノーベル賞受賞は、キュリー夫妻を一躍有名人にしましたが、しかしそれは彼らの望むものではあ りませんでした。数々の取材や面会の依頼、多量の手紙などに時間を取られ、あまつさえ一家の自宅や研究所にまで踏み入ろうとするマスコミに辟易し、何より 研究をする余裕が奪われました。
1904年、パリ大学はピエールを物理学教授職に迎えるべく交渉をしましたが、実験室が用意されない事を知ったピエールはこれを辞退しようとしました。大学側は折れ、研究費と設備費を用意してようやくピエールを教授として迎えることができました。
この年、マリーは妊娠していたこともあり、一家はさらに隠遁的な生活を送るようになりました。研究はできず、大衆やマスコミに追い回されるために偽名を 使ってブルターニュの田舎へ避難することもあったと言います。1904年12月6日には待望の次女エーヴが産まれ、一家は少しずつ落ち着き始め、1905 年に入るとマリーは教職に復帰し、実験室にも入るようになりました。

1903年にノーベル賞を受賞した頃のマリー・キュリー
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 ピエールの死

 1906年に入ると、ピエールが教授職とともに得たキュヴィエ通りの新しいの研究室が始動し始めまし た。少々手狭で交通には不便な郊外でしたが、助手と手伝いが加わった上にマリーは研究チーフに任命され、給与も支払われることになりました。しかし、キュ リー夫妻は相変わらず多忙な毎日を送っていました。マリーはセーブル女子学校で教え続け、ピエールは科学者、そしてまた大学教授としての雑務に追われてい ました。
多忙ながらも充実した、幸福な日々を送っていたマリーに運命は過酷過ぎるとも言える扉を開きました。4月19日、雨の木曜日にピエールが荷馬車に轢かれ事 故死したのです。すぐ大学に連絡がされ、大学の関係者がキュリー家に向いました。その時マリーはちょうど不在で、夜になって娘を連れて帰宅したマリーはそ の知らせに凍りついてしまいました。遺体や遺品を受け入れたマリーがとめどなく涙を流したのは、翌日駆けつけて来た義兄ジャックの姿を見たときでした。こ の不慮の事故は世界中に報道されました。しかし、21日に生家で行われた葬儀では、マリーは政府の代表団の派遣も弔辞も大げさな行列も断り、質素な葬式を 行いました。マリーはこの日について「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで日記に書いています。
5月13日、パリ大学の物理学部はピエールの職位と、研究室における諸権利をマリーに提供することを決定。 葬儀後に政府から提供さられた遺族年金は断っ たマリーでしたが、熟慮の上で彼女はピエールの”遺産”を受け継ぎ、ピエールにふさわしい研究所を作ることが自分の使命と決意し、大学の職位と研究室を受 け継ぐことを受諾しました。こうして、パリ大学初の女性教授が誕生したのです。 夏の期間中、マリーたちは住居をピエールの実家であるソーに移して大学講義の準備をしました。
そして11月5日の午後1時30分、マリーは万雷の拍手を受けて物理学部教室の教壇に立ちました。どんな挨拶がされられるのかと興味津々の生徒や聴衆たちの前で、マリーが最初に話した言葉は、ピエールが最後となった講義を締めくくった一文でした。淡々としながら、彼の志を受け継いで生きるマリーに観衆は感動を覚えました。(Loby注:ここを読んで涙が出ました...)
研究生活に復帰したマリーが最初に取り組んだことは、長年ピエールを支援して来たケルヴィン卿の論破でした。それは、卿が、「ラジウムは元素ではなく化合 物」という理論を英国の代表的な新聞『ロンドンタイムズ』に発表したからでした。彼女は実験結果でもって反論しようと考え、夫妻の同僚らとともにウランの 約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラムの分離に取り組み、1910年に見事に達成しケルヴィン卿の誤りを立証しました。
同年2月25日、義父ウジューヌ・キュリーが亡くなりました。息子ピエールが連れてきた、貧乏な異国(ポーランド)の女を何の偏見もなく受け入れ、様々な 困難に遭ったときも常に支えてくれ、何より娘たちにとって良きおじいちゃんであったウジューヌの死に家族は悲しみに沈みました。


スキャンダルと二度目のノーベル賞

研究所は1907年から”鋼鉄王”アンドリュー・カーネギーからの資金援助もあり、10人程の研究員を抱えるまでになっていました。また、同年にはそれまでの研究を集成した『放射能概論』を出版し、またラジウム放射能の国際基準単位を定義する仕事も行っています。1911年に決定されたこの単位は、夫妻の姓から「キュリー」(記号:Ci)と名づけられています。
しかし同年、周囲から推挙されてフランス科学アカデミー会員の候補になった事が、マリーを煩わしい事態に巻き込むことになります。アカデミー会員の席を巡って対立候補となったエドアール・ブランリーと の間で、二つの支持グループが出来上がってしまったのです。自由主義者のマリーと敬虔なカトリック教徒であるブランリー、ポーランド人対フランス人、そし て女性対男性という構造が作られたのです。特にかつて1902年にピエールと競い合ってアカデミー会員となった人物が、女性のアカデミー入りに猛反対しま した。さらには、カトリックである投票権者達に対してマリーがユダヤ人だというデマまで流れました。エクセルシオール紙などは一面でマリーを攻撃し、右翼 系新聞には彼女の栄誉はピエールの業績に乗っかっただけという中傷記事が載りました。



エクセルシオール紙の中傷記事
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 1911年1月23日、アカデミー会員の選出投票が行われ、結果は僅差でブランリーが選ばれ、マリーを支援した人々は大いに落胆しました が、マリー自身はそれほど失望しなかったと言います。この時期、マリーはすでに請われていくつかの外国の化学アカデミー会員となっていました。マリーを拒 絶したフランスが、初の女性会員を選出したのは1979年になってからでした。淡々としたマリーでしたが、手記にはフランス科学アカデミーの古い因習を 嫌っていたことが書かれており、二度と候補とならなかったばかりか、フランスの機関紙への論文掲載も拒否し、科学アカデミーとは完全に袂を分けた形となり ました。後の事になりますが、フランスの公的機関が正式にマリーに栄誉をあたえたのは、1922年にパリ医学アカデミーが医療への貢献という理由で、前例 を覆して彼女を会員に選出した事ででした。

 マリーは研究生活に戻りましたが、この時期に彼女を巻き込む大スキャンダルが起きます。
有名人のスキャンダルを売りものにしていた当時の新聞が、マリーとピエールの元生徒であったポール・ランジュヴァンとの不倫記事を大々的に掲載したので す。この問題はポール・ランジュヴァンの妻が訴えたことで裁判騒ぎにまで発展し、マリーのソルボンヌ大学における教授の地位も危うくなるほどでした。マ リーは子供を連れて親交のあったエミール・ボレル夫 妻宅に匿われます。フランスの公共教育大臣は、ボレルに対して、マリーを庇うなら大学教授職を罷免するとまで迫りましたがボレル夫妻は少しも怯みませんで した。この時期、マリーは腎臓を悪くしてしばらく入院しますが、彼女は回復後もボレル夫妻の尽力などのおかげで教授の地位にとどまることができました。真 の友情というものは苦境・逆境の中でこそ光るものです。

 

窮状にあったマリーを支援したエミール・ボレル
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このスキャンダルの話は、第1次世界大戦が勃発するまで巷の話題から消えることはありませんでした。
最近の英国のニュース・オブ・ザ・ワールド新聞のように、いつの時代でもゴシップ記事を売り物とする新聞は絶えないものです。 余談ですが、このスキャンダルに翻弄されていた時期に、ソルベー会議に 出席したマリーは、若きアルバート・アインシュタインへチューリッヒ大学教職への推薦状を書いています(1911年10月)。常に将来性のある学生や科学 者を援助・支援するという、一貫した高貴な姿勢を見ても、いかにマリー・キュリーが優れた人物かわかろうというものです。

 

1911年に開催された第1回ソルベー会議に出席したマリー(前列右から2番目)。
後列一番右はポール・ランジュバン、その隣はアインシュタイン
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  このスキャンダル問題の渦中に、マリーはノーベル化学賞授与の報を受けます。受賞理由は「ラジウムとポロニウムの発見と、 ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげた事」と、新元素発見の評価でした。ここにいたって、ようやくス ウェーデンのアカデミーはキュリー夫妻の化学における功績を認めたのです。
マリーは、世界で初めてノーベル賞を二度受賞した科学者になるとともに、物理学賞と化学賞という異なる分野で受賞した最初の科学者になりました。しかし、 スウェーデン側からはスキャンダルを理由に、授与を見合わせてはどうかという声がありましたが、マリーは毅然と受賞を受ける意思を示し、今回はストックホ ルムでの授賞式に出席しました。受賞記念講演でマリーは、ピエールの業績と自分の仕事を明瞭に区別した上で、この成果の発端はふたりの共同研究にあったこ とを述べました。これは明らかに、前述のフランスの(右翼新聞などの)中傷記事に対する反論でもあったのです。
受賞後、マリーは鬱病と腎臓手術のため入院しています。その後サナトリウムなどで療養を続けながら、少し回復した時には招待されて英国に行ったりしていま す。フランスのマスコミは、相変わらず何かネタを見つけてはマリーの誹謗記事ばかり載せていましたが、その一方で英国など他国のマスコミがマリーを評価し たりすると、マリーをフランスの先進性の象徴に祭り上げるなど、ご都合主義的な記事ばかり載せ、マリーはさらにジャーナリズムを嫌悪することになります。

ノーベル化学賞の金メダル
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1911年に受賞したノーベル化学賞の感状
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 マリーにとって苦しい時に、彼女を支えたのは多くの知人、友人、そして家族たちでした。
1912年5月には、ヘンリク・シェンキェヴィチを 団長とするポーランドの教授連代表団はマリーを訪問し、ワルシャワに放射能研究所を設立して彼女に所長になってほしい、と依頼しました。1905年のロシ ア第一革命以後、ポーランドなどに対するロシアの影響力は弱まり、そして何よりマリーの名声が世界的なものになっていたからです。マリーは熟考した末に、 本来自分がもっていた目的― つまり、ピエールから受け継いだ研究所を彼の名前に相応しいものにすること― を思い出し、こうしてポーランドに帰国するこ とは断りましたが、パリから放射能研究所を指導することを受諾しました。
1913年、ワルシャワの研究所開所式に出席したマリは、初めてポーランド語で科学の講演を行っています。
夏にはようやくマリーの健康も回復し、一家でスイスを旅行したりして休息をとったあとで、マリーはまた積極的に活動を始めます。1914年7月には、夫の 名を取ったピエール・キュリー通りにラジウム研究所の新しい建物キュリー棟が完成しました。しかし、実験はスタートできませんでした。同年7月28日、第 一次世界大戦が勃発したからです。

ワルシャワの放射能研究所
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 第一次世界大戦

第一次世界大戦の勃発により、マリーの研究所のスタッフたちもほとんどが兵士として招集されました。
マリーは娘たちをブルターニュに疎開させ、自分はパリに居残って研究を続けていました。9月2日にはドイツ軍によるパリ空爆があったため、マリーは政府の 要請で研究所の貴重な物質(純粋ラジウム)をボルドーに疎開させることになりましたがたが、彼女はこの非常事態に自分がやらなければならない事があると考 え、パリに帰りました。
それは、ヴィルヘルム・レントゲンに よって発見されたX線がすでにX線撮影という形で医療に使用され初めており、これを使えば戦傷者の手術において、銃弾や破片など体内に入った異物を手術前 に確認できるため、当然、負傷者の生存率が上がるのです。しかしマリーは、フランスにはX線撮影設備が非常に少ないということ知っていました。彼女はX線 研究に携わった経験こそなかったものの、大学でX線について講義をしていたため十分な知識を持っていました。なにより、放射線はマリーの専門分野なので す。そこでマリーは大学や製造業者などから必要な機材を調達し、複数の病院にX線撮影装置を組立設置した上で、教授や技師たちに操作法を教えました。

”プチ・キュリー”と呼ばれた移動X線撮影車のマリー
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また、マリーは、軍がX線撮影設備を充分に持っていないことを知ると、トラックにX線撮影設備と発電機を搭載して、1914年8月頃から病院を巡回始めました。この移動レントゲン車は、フランス軍の中で「プチ・キュリー」(小さなキュリー)の愛称で呼ばれ、マルヌ会戦の負傷者治療では大活躍をしました。
マリーが設置したX線撮影設備は、病院や大学など200ヶ所に及び、「プチ・キュリー」も20台が活動することなりました。マリー自身も、「プチ・キュ リー」に乗り込んで各地を廻り、技術者への指導にあたるだけにとどまらず、自らも解剖学を勉強し、さらに自動車運転免許を取得し、また「プチ・キュリー」 が故障した時に応急修理できるように自動車整備まで習得して負傷者の治療に渾身の努力をしました。そこには物静かな研究者の姿はなく、人々のために献身的 に尽くす勇敢で行動力のある一人の偉大な女性科学者がありました。マリーの長女イレーヌは、そんな母の姿を見てこの医療支援活動に自主的に参加していま す。さらに母子は貯蓄の相当額を戦債購入に充て、さらにノーベル賞を含む数多いメダルを寄付しようとしましたが、さすがにメダルの寄付は役所の担当者が恐 れ多いと辞退したそうです。 X線撮影装置には、より効率的なラドン(Rn) が使われるようになり、マリーはボルドーから持ち帰ったラジウム金属を使用してチューブにラドン気体を詰める作業も行っています。これはマリーにX線被曝 を起こすことになり、後の健康状態に悪影響を及ぼしたのではと考えられています。 1918年11月、戦争は終結します。戦債は紙クズ同然となり、キュリー一家は貯蓄をかなり失うことになりましたが、元々覚悟の上でした。そんなことより マリーが喜んだのは、1919年に故郷ポーランドが他国の支配から独立し、ポーランド第二共和国が建国された事でした。その初代首相には、マリーのパリ学 生時代の旧友であったイグナツィ・パデレフスキが就任しました。


収穫の大きかったアメリカ訪問

研究所は再開しましたが、それは設備にも試料にも事欠く状態でした。1920年にロスチャイルド家が出資したキュリー財団が設立され、放射線治療の研究を支援したが、物理や化学の研究にはほとんど費用が廻りませんでした。
同年5月、アメリカの女性雑誌『ディリニエター』のインタビューに答えて、”今何が一番欲しいか”という質問に、”1グラムのラジウム金属”と答えまし た。ラジウム金属の値段は既に1グラム=10万ドルというマリーにとっては手の届かない価格だったのです。女性雑誌は米国でキャンペーンを行い、マリーに ラジウムを贈呈する資金を集めています。
女性雑誌の求めに応じ、マリーは娘ふたりを連れて1921年に米国を訪問します。そのスケジュールには多くの大学などへの訪問や講演から、米国大統領との 式典までが準備されていると知ったフランス政府は慌て、自国が今まで彼女に何の名誉もあたえていないことを補おうと、またしもレジオンドヌール勲章を授与 しようとしましたが、以前と同じ理由でマリーは断っています。研究から離れたこの宣伝活動はマリーにとって気の進むものではありませんでしたが、彼女は米 国各地で大歓迎を受け、大統領ウォレン・ハーディングからラジウムの贈呈を受けます。ただしマリーはこれを彼女個人への贈呈ではなく、研究所への贈呈と扱 い、個人の財物にはしませんでした。
1929年には再渡訪米し、マリーは1925年にワルシャワに設立したキュリー研究所に導入する機器類の資金を得るのに成功しています。
米国への訪問旅行は大成功となり、研究所はラジウム以外にも多くの鉱石サンプルや分析機器などの実験用機器、そして資金を得ることができました。しかし、 彼女はこの旅行で自分の名声や影響力が想像以上に大きくなってしまい、もはや研究や実験に没頭することは許されないことを悟ります。それならばと、マリー はパリのラジウム研究所を立派な放射能研究の中心に育てようと決心しました。

 



マリ・キュリーが研究を続けたパリの放射能研究所(1939年)
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1922年にはユネスコの前身に当る国際知的協力委員会 (International Committee on Intellectual Cooperation, ICIC) メンバー12人のひとりに加わっていますが、相変わらず着飾ったりしなかったため、新渡戸稲造などは、彼女の印象を「見栄えもしない愛想の無い人物」と自著に記しています。

 

マリーの助手を務めたマルグリット・ペレー
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研究所でのフレデリックとイレーヌ・キューリ夫妻
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放射能研究所は性別・国籍を問わない多様なスタッフを抱え、マリーは彼らの指導に多くの時間を割くことになります。
毎朝のように、彼女の周りには研究や実験の指針や進捗を相談・報告し、論文の校正などを願う研究員らが集りました。マリーはそれらに対して適切な指示や指導をあたえ、研究の成果などが上がった研究員などには祝いのお茶会を開くなどして励まし、その実力を伸ばしました。アルファ粒子のエネルギーが一定ではない事を示したサロモン・ローゼンブルム、真空中のX線観察を行ったフェルナン・オルウェック、フランシウム(原子番号87の元素。元素記号は Fr)を発見したマルグリット・ペレーなど優れた物理学者・化学者が研究所から輩出しています。それらの中でももっとも際立ったのは、マリーの娘イレーヌとその夫フレデリック・ジョリオ=キュリーの人工放射能の研究でしょう。1919年から1934年の間、研究所から発表された論文は483件にもなりました。フレデリックとイレーヌ夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞しています。
しかし、放射能が人体へあたえる悪影響も次第に明らかとなってきました。日本の山田延男は1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてア ルファ線強度の研究を行い、マリーの支援も受けながら5つの論文を発表しています。しかし原因不明の体調不良を起こして帰国し、翌年亡くなっています。マ リーは訃報を受けるとすぐに弔意を表す手紙を送っています。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらにマリーの個人助手も白血病で亡 くなりました。しかし放射能とこれらの病気との因果関係はまだ明らかにされてなく、したがって対処法など誰も考えつきませんでした。


マリーの死

1932年、マリーは転倒で骨折した右手の傷はなかなか癒えず、また、頭痛や耳鳴りなどが続き、体調不調が続きました。春になるとマリーはポーランドを訪 問しましたが、これが最後の里帰りとなりました。1934年5月、気分が優れず研究所から早く帰宅したマリーは、そのまま寝込んでしまいました。検査を受 けた結果、結核の疑いがあるという診断が下されましたので、療養生活に入ることが決められ、エーヴはマリーをサナトリウムへ入院させましたが、そこでの診 察では肺に何の異常も見つからず、スイスから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血でした。
7月4日、マリーはフランスで亡くなりました。7月6日に近親者や友人たちだけが参列した葬儀が行われ、マリーは、ピエールが眠るソーの墓地に夫と並んで埋葬されました。
60年後の1995年、フランス政府はキューリ夫妻の業績を称え、二人の墓はパリのパンテオンに移され、フランスに貢献したの偉人の一人に加えられまし た。マリーは、初めてパンテオンに祀られる女性となりましたが、栄誉など関心のなかったマリーが生きていたら辞退したかも知れません。パンテオンに祀られ た際、マリーの棺内の放射能が測定されましたが、360Bq/ccという測定量は少し高めでしたが、許容濃度の5%程であり、ラジウムの半減期から考えて 放射線被曝説には疑問がもたれ、ラジウム被曝ではなく、プチ・キュリー号での活動中に浴びたX線被曝が病気を起こしたのでないか、という説が提唱されてい ます。

 

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マリー・キュリーの優れた発想、そして偉大な科学及び社会への貢献

ロバート・リードは、ピッチブレンドの測定結果から2つの新元素発見に漕ぎつけた発想はマリー独自のもので、誰からの助けも受けず定式化に辿り着いたと、 そして夫に意見を求めたとしても明瞭に彼女の業績に帰すと述べた。夫がどんな曖昧な形でも機会は全く無いと言い張ったと、彼女自身が記した自伝の中で2度 も触れている。これは、経歴の初期段階で彼女が関わる分野において多くの科学者が女性に独創的な仕事をする能力があると信じさせることが難しいと悟ったこ とを示すと、リードは解説している。
コーネル大学の科学史家L.ピアース・ウィリアムズは、次のように述べている。
マリー・キュリーは画期的な結果を物理学・化学にもたらした。ラジウムの放射は強く、彼女はそれを看過しなかった。それは一見してエネルギー保存の法則に 矛盾するため、基礎的な物理学の知見に再考を迫るものだった。実験レベルでのラジウム発見は、アーネスト・ラザフォードらに放射能の発生源を考えさせ、原 子の構造論構築へと導いた。ラザフォードのアルファ線研究は原子核存在の仮説へと繋がった。また医学の領域では、ラジウム放射線に使用によって癌治療に繋 がる手段を提供した。
また、物理や化学に革新的な考え方を提供したことと同様に、社会へ与えた影響も大きかった。彼女は自身の研究結果を世間に知らしめる上で、”性差別と国 籍”という、学問とは全く別の壁を打ち破る必要に迫られた。フランソワーズ・ジルー著『Marie Curie:A Life』が描き出したマリーの人生は、彼女がフェミニストの先駆的存在だったことを明らかにしている。マリーは時代に先んじて、束縛を断ち、自立した生 涯を過ごし、その資質は損なわれる事は無かった。アルバート・アインシュタインも、このマリーの人格は栄誉によっていささかも曲がってしまうことはなかっ たと述べている。

マリー・キュリーの受賞歴

1899年、1900年、1902年:ゲーグネル賞(鋼鉄の磁性研究に対して) 1903年:ノーベル物理学賞(ピエール・キュリーおよびアンリ・ベクレルと同時受賞)
1904年:オリシス賞(パリ新聞組合より)
1907年:アクトニアン賞(イギリス王立科学研究所)
1911年:ノーベル化学賞
1921年:エレン・リシャール研究賞
1924年:1923年度アルジャントゥイユ侯爵大賞
1931年:キャメロン賞(エディンバラ大学)


受賞メダル

1903年:ベルトロー賞メダル(ピエールと)、パリ市名誉賞メダル(ピエールと)、デービーメダル(ピエールと。イギリス王立協会)
1904年:マテウチ・メダル(ピエールと。イタリア科学協会)
1908年:クールマン賞大金メダル(リール工業協会)
1909年:エリオット・クレッソンメダル(フランクリン協会)
1910年:アルバート賞メダル(王立技術協会、ロンドン)
1919年:スペイン・アルフォンソ12世文官勲章大十字勲章
1921年:ベンジャミン・フランクリン賞メダル(アメリカ哲学協会、フィラデルフィア)、ジョン・スコット賞メダル(アメリカ哲学協会)、国立社会科学学会賞金メダル(ニューヨーク)、ウィリアム・ギブス賞メダル(アメリカ化学協会、シカゴ)
1922年:北アメリカ放射線学協会金メダル
1924年:ルーマニア政府第一級功労賞メダル
1929年:ニューヨーク婦人クラブ連合会金メダル
1931年:アメリカ放射線学会メダル

称号
存命中だけでも、各国の科学アカデミーなどから受けた称号は100を超える

1904年:モスクワ帝国文化人類学民俗学協会名誉会員。イギリス王立科学研究所名誉会員。ロンドン化学協会在外会員。バタヴィア哲学協会通信会員。メキシコ物理学協会名誉会員。メキシコ科学アカデミー名誉会員。ワルシャワ通算奨励協会名誉会員。
1906年:アルゼンチン科学協会通信会員。
1907年:オランダ科学協会在外会員。エディンバラ大学名誉法学博士。
1908年:サンクトペテルブルク帝国科学アカデミー通信会員。ブラウンシュヴァイク自然科学協会名誉会員。
1909年:ジュネーヴ大学名誉医学博士。ボローニャ科学アカデミー通信会員。チェコ科学文学美術アカデミー在外客員会員。フィラデルフィア薬学学会名誉会員。クラクフ科学アカデミー科学会員。
1910年:チリ科学協会通信会員。アメリカ哲学協会会員。スウェーデン王立科学アカデミー在外会員。アメリカ科学協会会員。ロンドン物理学協会名誉会員。
1911年:(フランス科学アカデミー会員選挙で落選)。ポルトガル科学アカデミー在外通信会員。マンチェスター大学名誉理学博士。
1912年:ベルギー化学協会会員。サンクトペテルブルク帝国実験医学協会客員会員。ワルシャワ科学協会普通会員。リヴォフ大学哲学名誉会員。ワルシャワ写真協会会員。リヴォフ理工科学校名誉博士。ヴァルナ科学協会名誉会員。
1913年:アムステルダム王立科学アカデミー特別会員(数理物理科)。バーミンガム大学名誉博士。エディンバラ科学技術協会名誉会員。
1914年:モスクワ大学物理医学協会名誉会員。ケンブリッジ哲学協会名誉会員。モスクワ科学協会名誉会員。ロンドン衛生学会名誉会員。フィラデルフィア自然科学アカデミー通信会員。
1918年:スペイン王立医学電気放射線学協会名誉会員。
1919年:スペイン王立医学電気放射線学協会名誉会長。マドリッド・ラジウム研究所名誉所長。ワルシャワ大学名誉教授。ポーランド化学協会会長。
1920年:デンマーク王立科学文学アカデミー普通会員。
1921年:エール大学名誉理学博士。シカゴ大学名誉理学博士。ノースウェスタン大学名誉理学博士。スミス単科大学名誉理学博士。ウェルズレイ単科大学名 誉理学博士。ペンシルベニア女子医科大学名誉博士。コロンビア大学名誉理学博士。ピッツバーグ大学名誉法学博士。ペンシルベニア大学名誉法学博士。バッ ファロー自然科学協会名誉会員。ニューヨーク鉱物学クラブ名誉会員。北アメリカ放射線学協会名誉会員。ニューイングランド化学教員協会名誉会員。アメリカ 自然史博物館名誉会員。ニュージャージー化学協会名誉会員。工業化学協会名誉会員。クリスティアニア・アカデミー会員。ノックス技芸科学アカデミー名誉終 身会員。アメリカ・ラジウム協会名誉会員。ノルウェー医療ラジウム研究所名誉会員。ニューヨーク・アリアンス・フランセーズ名誉会員。
1922年:パリ医学アカデミー自由客員会員(フランス初)。ベルギー・ロシア学術団体名誉会員。
1923年:ルーマニア医療鉱水学気候学協会名誉会員。エディンバラ大学名誉法学博士。チェコスロヴァキア数学者物理学者連盟名誉会員。
1924年:ワルシャワ市名誉市民。ニューヨーク市民ホールの座席に名前が記載される。ワルシャワ・ポーランド化学協会名誉会員。クラクフ大学名誉医学博士・クラクフ大学名誉哲学博士。リガ名誉市民。アテネ精神科学協会名誉会員。
1925年:ルブリン医学協会名誉会員。
1926年:ローマ≪ポンティフィチア・ティベリアナ≫普通会員。サン・パウロ化学協会名誉会員。ブラジル科学アカデミー通信会員。ブラジル婦権振興連盟 名誉連盟員。ブラジル・サン・パウロ薬学化学協会名誉会員。ブラジル薬学師協会名誉会員。ワルシャワ理工科学校化学科名誉博士。
1927年:モスクワ科学アカデミー名誉会員。ボヘミア文学科学協会在外会員。ソヴィエト連邦科学アカデミー名誉会員。北アメリカ州連合医学研究科協会名誉会員。ニュージーランド学士院名誉会員。 1929年:ポズナニ科学協会名誉会員。グラスゴー大学名誉法学博士。グラスゴー名誉市民。セント・ローレンス大学名誉理学博士。ニューヨーク医学アカデミー名誉会員。在アメリカ・ポーランド法人医学歯科学協会名誉会員。
1930年:フランス発明学者協会名誉会員。フランス発明学者協会名誉会長。
1931年:世界平和連盟名誉会員。アメリカ放射線学学会名誉会員。物理学自然科学アカデミー在外通信会員。
1932年:帝国ハレ・ドイツ自然科学アカデミー会員。ワルシャワ医学協会名誉会員。チェコスロヴァキア化学協会名誉会員。
1933年:イギリス放射線学レントゲン協会名誉会員。
栄誉
マリ・キュリーは1902年に夫とともに、1910年には単独でフランスからレジオンドヌール勲章を贈られたが、どちらも辞退した。

1935年、ワルシャワに設立されたラジウム研究所の前に彼女の銅像が建立された。序幕はイグナツィ・モシチスキの夫人が行った。この像は1944年のワルシャワ蜂起の際、銃撃を受けて損傷した。戦後修復を受けたが、銃創をあえて残す決定が下された。

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彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されている。
マリーの残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられている。中には彼女の料理の本からも放射線が 検出された。これらは鉛で封された箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必須となる。また、キュリー博物館も実験室は放射能汚染されて見学できな かったが、近年除去が施されて公開された。この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリの指紋からも放射線が検知されるとい う。


キュリー夫妻の長女イレーヌもその夫ジョリオ・キュリーとともに人工放射能の発見で1935年ノーベル化学賞を受賞している。 二人の娘のうちの妹のエーヴ・キュリーは作家になり、「キュリー夫人伝」を書いた。娘の書いた伝記ゆえに、「キュリー夫人伝」は、この面でのマリーの生活 にはまったく触れていない。むしろピエールとの純愛を生涯貫き、二人の娘を立派に育てた母でもあった、との女性像を描いている。

 エーヴ・キュリー
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 この伝記が出版されたのはマリーが亡くなって4年後の1938年である。その年の内に日本語訳も出版された。川口篤、河盛好蔵、杉捷夫、本田喜代治という 錚々たる仏文学者が訳者に名を連ね、白水社から出版された。 これは、何度も版を重ね、戦後も長く出版されつづけた(その後1988年に、川口篤単独の新訳が、同じ白水社から出版され、現在も売れている)。 世界中でも何ヶ国語にも翻訳されており、伝記小説の中で、もっとも読まれているものの一つである。


マリーが学んだソルボンヌ大学(現パリ第6大学)は現在はキューリ夫妻の功績にちなんて「ピエール&マリ・キュリー」と呼ばれている

       (写真は理学・工学・医学部の建物)
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  パリの「「ピエール&マリー・キュリー通り」
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参考資料: エーヴ・キュリー 「キ ュ リ ー 夫 人 伝
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参考サイト:マリ・キューリ(Wikipedia)

       Emilio Segrè Visual Archives

       Standard Chemical Company, Marie Curie, and Canonsburg

動画もあります


 

 

Fim
 

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コメント 2

rtfk

こんにちは^^)
小学生の頃彼女の伝記を読みました(^w^)
先日息子たちに元素記号で遊ぶカードゲームを
買い与えて一緒に遊んでいたら再び彼女を目にしました。
by rtfk (2011-08-22 14:05) 

Loby-M

>rtfkさん、こんにちは。
 マリー・キュリーの生涯は、大きな感動と教訓をあたえてくれますね!
 子供たちといっしょに読むのに最適な本の一つですね。

>konnさん、ご訪問&nice!ありがとうございます。

>アレクリパパさん、ご訪問&nice!ありがとうございます。

>Liveさん、ご訪問&nice!ありがとうございます。

>song4uさん、ご訪問&nice!ありがとうございます。

>マチャさん、ご訪問&nice!ありがとうございます。
by Loby-M (2011-08-25 08:39) 

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