日本語のルーツを求めて Part 4 [探求]

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  今まで3回に分けて見てきた「日本語のルーツ」を求める旅も今回が最終回です。
難解な内容にもかかわらず根気よく読んでくださった皆様にお礼を申し上げます。

  さて、日本のお米と古代タミル地方のお米が同じような丸い米であったということを見たあとは、民族につきものの行事を見ましょう。 
大野先生は1月15日に行う小正月の行事に、日本では「ホンガ、ホンガ」と言って言えの周りをまわる行事をするところ(東北地方)があり、タミルにも「pongalo pongal」と言って言えの周りをまわる行事があると指摘しています。 そのほかにも1月14日から16日にかけて行う行事でたいへんよく似ているものがあります(行事参照
この小正月行事の比較を見ると、”なるほど~よく似ているな~”と思いますね。



◆かめ棺と子持ち土器

かめ棺とは亡くなった人をかめに入れて埋葬していたことからついた名前ですが、縄文時代には死産の幼児をかめに入れて家の入り口に埋める習慣があったそうですが、おとなをかめ棺にいれて埋葬することはしませんでした。
それが弥生時代に入ると、北九州ではかめ棺に入れて埋葬する方法が使われるようになったのです。
ちなみに「吉野ヶ里遺跡」では2千個にものぼるかめ棺の集団墓地が発掘されています。
このかめ棺に入れて埋葬するという風習は、どこから来たのでしょうか?
朝鮮には小児をかめ棺に入れて埋葬しましたが、おとなのかめ棺埋葬はまれだそうです。そして中国でもそのような風習はないそうです。
ところが、南インドでは弥生時代と重なる時期に、亡くなった人をかめ棺に入れて埋葬していたのです。それも四百、五百と同じ場所に(集団墓地)。また南インドのかめ棺と弥生時代のかめ棺の形、埋め方等の類似性を見ても南インドと弥生時代の結びつきはさらに強まるといえるでしょう。


弥生時代の日本と同時期のタミル地方では、同じようにかめ棺が使われた
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弥生時代の出土品で「子持ち土器」と呼ばれる壷があります。
なぜそう呼ばれるかというと、下の写真を見てわかるように、真ん中の口のまわりに小さな口が5つあるからです。
しかし、日本では長いことこの土器の用途がわからなかったのですが、インドの博物館(マドラス州立博物館)に大きさこそ日本の「子持ち土器」の倍以上あるものの、まったく同じ形状の壷があったのです。そしてこの博物館の壷の口には皮が張ってありました。そう、これは楽器だったのです。そしてこの楽器壷が弥生時代と同時期に南インドで使われていたのです。日本では使用目的のわからなかった「子持ち土器」の用途は南インドで判明したのです。


子持ち土器(左)と南インドの土器楽器(右)
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◆海上の道


古代、ポリネシア人(正確には台湾原住民)が広い大洋をカヌーで何千キロも航海し、彼らの言語と文化を太平洋の広範なエリアに広めたように、タミル人たちも海上の道を使って日本にたどり着いたのです。
日本近海の海流を見ると、フィリピンの方からくる海流(黒潮)は世界的にも最も強い海流で、私達が考えているよりも速くて太い流れなのです。この海流の一部は沖縄の北で枝分かれして対馬海流となり、九州北部および朝鮮南部を通るのです。
これで、なぜタミル人たちが古代に九州北部にたどり着いたかが理解できると思います。 これは同様にタミル人たちが朝鮮半島南部にもたどり着いたであろうという説の根拠となりますね。


日本近海の海流図(クリックすると拡大して見れます)
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古代のタミル人たちは、このような船に乗って日本にやって来たのだろうか?
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大野先生は、清水風遺跡(奈良県)から出土した弥生時代の土器の破片に船の絵が書いてあり、東京商船大学名誉の教授である茂在寅男(航海学者)による調査によれば、この船は片舷で18のオールをもつ全長25メートルもある大きな船だったそうです。つまり、弥生時代にはこのような大きな船がすでに使われていたということです。もし、このような船をタミル人が使って航海をしていたとしたら、古代ポリネシア人にまさるともおとらない交通手段をもっていたということになります。


日本人のルーツと日本語のルーツ


さて、長々と書いてきましたが、そろそろ日本語のルーツ探索の旅を終えたいと思いますが、その前に日本語のルーツと密接な関係のある、日本人の祖先はどこからやって来たのか、つまり日本人のルーツについてちょっと見てみたいと思います。

日本人のルーツについては、興味深い資料が二つあります。
一つは国立科学博物館のサイトで、『分子レベルからみた日本人のルーツ』というページです。これを見ると日本人の先祖たちは、

① 中国 ⇒ 朝鮮 ⇒ 日本
② 東南アジア(?) ⇒ 日本
③ 中央アジア ⇒ モンゴル・中国北東部 ⇒ 日本

というルートで日本へやって来たことが分かります。
また、遺伝子的に見ると(図2)、日本人と朝鮮人は兄弟みたいなものです。そうすれば琉球人は従兄弟、中国人は伯父さんということになりますね。


  (画像をクリックすると拡大して見れます)
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ただし、国立科学博物館のサイトでは〝弥生人は中国から稲作技術をもって日本に渡来した”とありますが、いままでずっと見てきた言語の問題などから、弥生人=中国人説には同意できません。

もう一つは『日本人のルーツと特徴』というサイトで、”日本人の祖先は、下記9人の母親が、殆ど(約95%)の日本人の起源”とあり、おおまかだけどその9種類の”日本人”の特徴が描かれていてとても興味深いです。それによれば、

アジア最古(D):
中央アジア(バイカル湖西部周辺)で約6万年前誕生、日本人の34%、長寿・寒さに強い。体温を逃がさないように、皮膚や瞼が厚く、細目・小太り・胴長体型が多い。寒さから水分の蒸発を守る皮脂腺が発達した人が多い。粉耳が多い。 中央アジア・東アジア最大、一部はベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸に到達した。

原日本人(M7):
東中国(上海・蘇州・南京周辺)で約4万年前誕生、日本人の15%、南方系に適応。古くから日本に住みついた。縄文人などのルーツ。熱を溜めにくい丸みを持つ小柄体型、丸く低い(広い)鼻、湿気の多い所で汗腺が発達した人が多い。飴耳が多い。 中国南部より、海を渡って、台湾、琉球(沖縄)、北海道、や、インドネシア、フィリピンにまで達した。

世界一の冒険者(B):
南中国で約6万年前誕生、日本人の15%、陸路(ベーリング海峡を渡って?)、南アメリカや、海流に乗って、日本や、南方は、オセアニアなどの島々、環太平洋に広く分布。

北の旅人(G(→Y)):
東シベリアで約3万年前誕生、日本人の7.5%、広く南下し、アイヌ(北海道)、朝鮮半島、中国や中央アジアにも分布。

バイカル湖発祥(A):
バイカル湖湖畔域で約2~3万年前誕生、日本人の6%、
D型同様、寒冷地に適応し、東アジア(シベリア~中国南部)に広範に達した。 ベーリング海を渡り、北アメリカ先住民の祖先となった。

東南アジア最大(F):
北ベトナム・ラオス・中国国境付近周辺で約4~5万年前誕生、日本人の5%、
痩せた体型、汗腺が発達した人が多い。飴耳が多い。 日本には、朝鮮半島を経由し入ってきた。一部は中央アジアにも達した。

ヒマラヤ・山岳民(M9):
ヒマラヤの山岳地帯・チベット周辺で約4万年前誕生、日本人の3.4%。
日本には、朝鮮半島を経由し入ってきた。中央・東アジアに分布。

長距離冒険者(CZ、M8a):
北東アジアで約3~4万年前誕生、日本人の3.2%。
日本には、朝鮮半島を経由し入ってきた。シベリアを経由しベーリング海を渡って南アメリカや、西は北欧(サーミ(ラップ)人(氷原の遊牧民))、フィンランドまで達している。

中国起源渡来人(N9):
M7型と同じ東中国で約2~3万年前誕生、日本人の7%。
縄文以降の比較的新しい時代に渡来した民族。日本には、朝鮮半島を経由し入ってきた。粉耳が多い。



以上のように遺伝子的(ミトコンドリアDNA)に関する研究では、日本人の祖先はモンゴル系、東南アジア系に大きく分かれるようですが、ここで重要なのは日本人の祖先がたとえ中国⇒朝鮮⇒日本というルートで日本列島にやって来たにせよ、その元祖日本人(弥生時代以前の日本人)たちが使っていた言葉が、即、現在私たちが使っている日本語の祖先語であるという確証はないということです


文明 VS 文明

大野先生も指摘されているように、すぐれた文明をもつ種族(国)がおとる文明をもつ種族(国)に接触した場合、おとる文明をもつ種族(国)は急速にすぐれた文明を吸収するとともに、それまでの自分の文明を忘れ去ってしまいます。
忘れ去るという表現は適切ではないかも知れません。正確に言うと、新しく導入した文明(生産・製造技術、宗教、文字、交通手段、機械、戦略・戦術、兵器など)の効率、便利さが自分たちがそれまで使っていたものより格段に優れているため、使わなくなってしまうのです。

その昔、ローマ帝国が巨大な軍事力でもって周辺のケルト語民族を征服し、その結果、ローマ文明とラテン語をヨーロッパ全土に広げたように、また近代においては米国がその資本主義(プラス軍事力)でもって世界経済の中心となり英語をほぼ世界語となるまで広げたように、古代の日本においては、タミル人がもたらした文明(稲作技術、金属の使用、機織り技術、言語)により、それまでの狩猟・採集をベースとした生活から水田耕作をベースとした生活へと劇的な変換が起こり、ついで職業の分化が始まり、言葉も縄文語からタミル語の文法・単語を基礎としたものとなったのもすぐれた文化(タミル文化)がおとった文化(縄文文化)にとって代わったのも同じだと言えるでしょう。


                       ケルト人分布図

             ● - 現在ケルト語派の言語が話されている地域 
             ● - ケルト人の居住区と認識されている地域 
             ● - 過去にケルト人が居住したことのある地域                  
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ケルト銀器
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                           ローマ帝国勢力図

         ● - 紀元前133年 
         ● - 紀元前44年 
         ● - 14年   
         ● - 117年                                                  
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                             ローマ帝国国旗

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                          世界の英語圏 

          ● - 英語が公用語となっている地域 
          ● - 英語が公用語であるが主要言語ではない地域

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英語圏の主要経済国である米国は今のところは世界経済の中心となっているが...
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(上記の図はすべてWikipediaより引用)


この縄文文化から弥生文化への変換は、たとえて言えば封建社会(武士社会)から西洋的国家体制を有する近代国家へ変換した明治維新のような激変であったと思います。明治維新後、それまで武士を主としていた日本人が西洋の進んだ文化を急速に吸収し列強並みの力をつけたように、縄文時代の日本人たちはタミルの進んだ文化を急速に吸収し弥生文化を花咲かせたというわけです。ちなみに、この時代における水田稲作、鉄器の使用、それに織機の使用は中国における使用よりも早かったといわれています。これから見ても、いかにタミル文明が進んでいたかが分かると言うものです。
かくしてタミル文明は日本中に広がり、


弥生文化 (稲作、金属、織物、タミル語の渡来)
 
古墳文化 (地域国家から統一国家の成立)
 
飛鳥文化 (仏教伝来、漢字導入)


という順序で文明興隆期を迎えるわけですが、日本の歴史を考える時、日本文化は中国、朝鮮、そしてインド(タミル地方)を抜きにして考えることはできないという結論に達するということですね。



《終わり》

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